余談(覚書のようなつもりで、雑然とただ書きます – ページ16)
(数日前にトップのページに書いたものをここへ移します。)
この時節に、大学講師は、多忙となるのは当然です。講義や授業の話です。8年もこの仕事をやっている僕は、経験則から分かっていて、もう予防線を張っているのですが、心配なのは家内です。6月には休日がないことと、英国とは違って、6月半ばあたりから、到底普通の人間には耐えられるとは思えない「梅雨」に入るということの意味が、(経験していないので責められませんが)良く分かっていないようです。…夫婦二人して、同じような仕事をすることになるとは思ってもいませんでした。(家内は、主に、東京外国語大学で応用言語学と英語、それから、中央大学で英語を教えています。3月まで働いていた英国の書籍小売業の仕事もネット上で継続しているようです。それから、最近、ロシア語のプライヴェート・レッスンも開始しました。)僕は、もう、だいだい、学生たちには、指導すべきことはしてしまったので、いつ学期を打ち切っても良いのですが、制度上、だいたい、7月半ばまでは学生を指導しろというのがおおかたの大学の姿勢なので、まあ、そうします。今年は、特に、(柄にもなく系統立てて)、指導に力を入れています。(その分、こちらの論文が書けないわけですけど。)平時は週当たり6日、週によっては、7日、出講しています。まあ、あれこれ、言いたいことはあります。一応、僕だって、大学教員ですからね。以下に、僕の提案を列挙します。@授業回数について:こんなものは、教官がどう講座を組み立てるか次第であり、大学が口をはさむべきことではまったくない。極端な場合、隔週で授業をやっても何の問題もないと思う。大学が、現場の教員を拘束するようなたわごとを言うようであれば、そんな大学には、来月にでも辞表を出したほうが良い。A学期につき、授業回数が多すぎる。学生は、定義上、授業があろうがなかろうが、図書館にでも行って、勉強をするものである。下手な教官の授業に出るよりも、図書館で自習をしたほうが、より多くを学べるというのは常識である。文部科学省のバカ連中が何を言い、大学経営陣が公金を取ろうとしてどんなプランを立てようが、伝統的には、日本の高等教育は学期につき12週から13週であって、15週などというのは、到底、いかなる屁理屈を当局がこねても、そんなものに耳を貸すべきではない。B補講と休講の自由。学期授業期間では教え切れない教育プランを立てる教員は、休講がなくとも補講をする権利を有するべきであり、学期授業期間が長すぎると考える教員は、好き勝手に、学期を短縮して良い。Cあまり大声で言う人がいないのが不思議だが、非常勤講師への報酬の引き上げは、絶対に必要である。やらなければ、非常勤講師の大半が体調を崩したり、精神状態に変調をきたしたりして、結果的に大学の講座の半分以上は崩壊する。専任教員だけで、そういう惨事に対処できるとは、とても思えない。具体的には、すべての大学が、非常勤講師への報酬を30%から50%は(少なくとも)引き上げるべきである。大学は、非常勤講師をなめてはいけない。僕でも、限度を超えれば、学部長くらいにまでは、直に文句を言いに行くくらいの準備はある。専任教員の先生方は良心的なのだが、問題は、文科省から金をふんだくろうだの考えている「経営陣」のほう。僕は、こういうことは、「機密情報」だとは考えないので、学生諸君にも、およそここに書いているのと同じような言葉を使って、事況を説明している。大学が教育よりも経営を重視するなんて、そんなのは「機密情報」ではないでしょ。Dそれから、僕が出入りしている大学のうちの一つで横行している慣行だが、民間会社から来ている「警備員」がキャンパスのあちらこちらにいる。そんなものがうろついている場所は大学ではあり得ない。(門の守衛さんだけで十分。)また、休み時間を使った「安全」についての全学に響き渡るあのアナウンスはやめるべきである。もうちょっとは待つが、いずれは文句を言いに行くことになるかもしれない。(4.6.2009)
最近、日本語でものを書くということをしなくなった。喋るほうは、仕事である程度はしなければならない。平均して、1日あたり4、5時間程度だろうか。しかし、それ以外の時間帯は、ほぼ英語で暮らしている。4月から妻が東京で大学講師をすることになり、学期中だけという限定つきだけれども、ロンドンから東京へ移住して来たので、仕事をして家に帰れば妻がいて、英語で喋るということに相成ったのである。それじたいは別にどうと言うことではないが、問題は、日本語のほうだ。初めは人に指摘されるまではまるで問題意識さえなかったのだが、自分の日本語力が、なるほど、言われてみれば、何となく変わってきている。どこがどう変わってしまっているのか、最近、気になるので、自己観察をするようになった。まずは、従来のように、スルスルと書くことができない。そう言えば、何でもない事務的文書を書く際でも、かつてできたように自然な感覚でするすると書くことができない。或いは、たまにではあるけれども、私信をしたためる。そのときに、筆が進まない。書きたい漢字が思い出せないということもあるし、一応は書いてみてもどこかを間違えて書いているという感覚に襲われることもあるし、文と文のつなぎ、文章の流れが自然に来ないということもある。ワープロで書けばあまりそういうことは意識しないで済むのだろうが、手書きだと、てき面にダメになっている側面が見えてくる。話し言葉の日本語のほうは、平素から外国語で暮らしていれば、発音がおかしくなったりするというのは、過去にもあったこと。英語にはない音がまずは端的にうまく調音できなくなり、それ以外の音も、英語で使っている類似の音の方向へとずれてしまう。母音が欠落するというのが、一番目立つところかな。自分で自分の発音がどうおかしいのかを査定するというのは、意外と難しい。
話し言葉における発音と、書き言葉における漢字使用や日本語らしい文章の構成という、二つの事柄について、もっと截然と分けて考えたほうが良いのかもしれない。発音のほうは、これは、どうなのだろうか。正確な調音を意識しないで喋っていると、相手に分かってもらえないということが多発する。「え、何ですか?」と、よく言われる。授業など、公式の場では、とにもかくにも、相手に分かってもらえる話しかたをしなければならないという強い制約がかかっているので、かなり意識しつつゆっくりと、可能な限り一つ一つの音をしっかりと発音するようにしている。結果的には、自分では良く分からず、学生に訊いてみなければ何とも言えないけれども、相当にゆっくりと喋っているのではないか。しかし、ゆっくりと喋れば、すべての音が日本語らしく調音できるというものでもない。あまりゆっくり過ぎると、逆に不自然になる。
とにもかくにも、普段から、日本語の音を自分の口は出していないというのが問題なのだろう。ある音の調音に困難を覚えるとして、そういうのは、それだけを単出してきちんと調音しようとすればするほど、却って、できなくなるということが起こる。結局、そういう音を含む言葉をなるべく使わないようにするという、情けないと言えば情けないその場凌ぎの対応策で応じているのが現状。また、文章を喋りながら組み立てるときに、英語が日本語に干渉してくるということがしょっちゅう起こる。何かを言いだす前に数秒置いて、ある程度、これから言う文章を頭の中で書いてから喋るようにするというのは、それは昔から心掛けていることだが、それにしても、それをいくら意識的に徹底しても、ある文章を言っている最中に、その文章の構成が分からなくなってしまうということが、最近、あまりにも多い。ものすごく大雑把なレヴェルでも、英語と日本語とでは、文章を組み立てるときにやりかたがまるで違うことが多い。例えば、主語をどれにするかで、それ以降の文の組立てが変わってしまう。口にする前に、これから言おうとしている文章の最後まで予め頭の中で書いておかないと、言っている最中に統語的な混乱が起こり、言葉が続かなくなる。そういうことを苦に感じるようになると、勢い、日本語で喋ることを忌避するようになってくる。
最悪なのは、英語と日本語の両方が同時に使われている場に身を置くこと。僕は、自分は、絶対に「同時通訳」はできないと思っている。ある場所で使われている言語が英語なのか日本語なのか、明確に決定されていなければ、僕は、言語的に機能しない。無能と言えば無能。でも、そういう頭になってしまっているので、しかたがない。米原万里さんの本を読んでいると、「すごいなあ」と単純に思い、また、嘆息しきりとなる所以。そういう方向の能力は僕にはないのだ。本当に無能なのである…。英語だとか英文学だとかを大学で教えているという職業柄、職場では、同僚と、どちらの言語で話をしているのかということに、最近、とても過敏になっている。日本語なら日本語一本で、英語なら英語一本で、というのが、僕にはとっては一番楽なのだけど、実際には、混ぜこぜになることが多い。そういう状況には、最近、ほとんど生理的な抵抗が自分の中で生じるようになったので、そういう場からはとにかく逃げるか、その場にとどまるのならば、何も言わないようにしている。できないのだから、しかたがない。
書き言葉のほうは、こちらは事情がちょっと違う。まず、話し言葉と比べると、使う頻度が低いよね。だから、とにかく目で覚え、手で覚えるべき漢字などは、使用頻度が落ちれば、どんどんと忘れていく。何でもない漢字の綴りが思い出せないで、広辞苑を調べたりしていると、情けない気分にもなるのだけど、それは、考えてみると、しかたがないこと。こつこつと、広辞苑をひいて、習字の練習をやるしかない。それは、でも、別に大した問題ではない。練習をすれば、する量に比例して、確実に、忘れたものを、再度、身につけることができる、それはほぼ間違いないからである。
まとまりがないけれども、とりあえず、断想ということで、失礼。
(4.6.2009)
最近、まるで日本語でものを書いていない。そういうことに気がつくのには時間がかかる。書いていないときには単に書いていないだけで、書いていないということに特段に意識が向かうことはない。書かない期間がしばらく続いて初めて、書いていなかったということに意識が向かう。だいたい、そういう流れになる。
もちろん、メモやら電子メールやらは日本語でしょっちゅう書いている。だけど、そういうときは、書くことが決まっていて、必要最低限度を簡単な言葉で書くだけ。そういうのは、僕が、今、考えている意味で、「書く」ということの部類には入らない。「書く」と僕がいうのは、書いても書かなくてもいいことをそれなりな分量まとめて書くことを指す。
昨日、1年以上も会っていなかった友人と話をしていて、「日本語を話す話しかたが以前とは違う」と言われた。確かに、日本語で話すときに、妙な違和感がしばらく前からあって、だから、そう言われたことじたいにはさほど驚かなかった。要は、2月以来、日本語を私生活でほとんど(と言うか、まったく)使っていないので、単に、感触を忘れてしまう。仕事では、もちろん、日本語で話すことが多いけれど、僕が仕事で使う日本語というのは「形」が決まっていて(講義、授業用の日本語)、変な言いかたかもしれないけれど、録音されたものを再生しているみたいなもの。簡単に言えば、考えて喋るということを、ほとんどする必要がない。それは、ほとんど「化石化」してしまった日本語で、これは経験がある人にしか分からないかもしれないけれど、自分で自分の言葉で話しているという感触が本当に薄れるものなの。ましてや、「不適切な表現は避けてください」などと言われる仕事をしていると、そういう「化石化」はどんどん進行してしまう。で、そうして凝り固まってしまった日本語というのは、不思議と簡単に再生できる。だけど、それは、もう、僕の日本語ではないわけ。問題は、私生活で日本語を使っていないということ。そのときそのときに言いたいことを即座に友人たちとかに言うための言語として、日本語が遠のいて行ってしまっている、というのが実感。
さっき、僕と同様に言語生活が混乱している妻と、そういうことについて話をして、いくつか、誰にでも起こりうる言語混乱状況を確認した。(と、我々が思いこんでいるだけかもしれないけれど。)まず、最初に、話す言葉のほうがおかしくなってしまう。母国語を使わないで、第2なり第3なりの言語ばかりを使っている場合の話ね。語彙の選択が狂ってくるのと、文章の組み立てかたが狂ってくるという、およそ二つの側面で、それは、まず、表われる。その次に、で、これは、あくまでも「その次に」なのだけど、発音がおかしくなってくる。細かなところで母音、子音の調音が狂うのだけど、それが連なると、全体として「発音がおかしい」という印象を話し相手に与えてしまう。酒が入ったりして「気楽」になればなるほど、そういう崩れが起こりがちになる。
そこまで調子がおかしくなってしまったときに、母語で文章を書こうとすると、もう、どうにもうまく行かなくなる…のかどうかは、良くは分からない。僕がとても気にしているのは、書き言葉というのは、きちんと書こうとすれば、まずは書こうとすることを頭の中で整理する必要があるわけだけど、それがちゃんとできるかどうかが問題になってしまう危険があるということ。漢字の書きかたを忘れてしまうなどというのは、問題の重さとしては軽いほう。もちろん、それはそれで問題だけどね。日本語を母語としない同僚や友人で漢字をせっせと勉強している人を見ると、自分が情けなくなることはある。
何の脈絡もないけれど、ちょっと、英語をアップしておきます。雑文をあちらこちらに書き散らす性分は相変わらずで、下手くそな英語で、ここ数か月、いったい、何をどこに書き散らしたか、自分でも良く分かっておらず、何がどこにあるのだか。自分のサイトではないところに思いつきで出しておいた文章です。一応、短編の冒頭部分なのだけど。2008年12月3日に書いたみたい。
I was told who I was, by Sandra, who, then, asked
me to repeat what she had said about who I was. My attention had been drawn to
the small window with vertical metal bars in it that was there high up in the
wall, and to the way the sunlight coming into the room through it was forming a
loosely defined shaft and lit up a corner of the room, leaving the rest of the
room in half shadows. Sandra raised her voice somewhat and repeated what she
had said and I had already heard. It was easy for me to obey her order, because
I have a very good verbal memory, so I mechanically repeated what she had said,
verbatim, which didn't seem to satisfy her, as she crossed her legs, folded her
arms, and, with something that sounded like a sigh, looked up at the ceiling. I
could immediately see why she reacted in that manner, because I could see, just
as she probably saw, that there was something missing in me, something she
wanted to see, now she has had an interview like this at least ten times over.
I felt sorry for her, for the fact that she had to be there with me in the
first place. Or did she have to, now? - I couldn't tell - I couldn't remember
why she was there at all. But I could see somehow that she, for her own
reasons, wanted to, because she didn't leave, but instead leaned forward again,
uncrossing her legs - about to tell me what she wanted me to do next. What now?
There was a
clock on the table that separated me from her, and it was not ticking though it
was doing its job; it was one of those soundless affairs. Words didn't come out
of Sandra's mouth, which was half open, and I could see how dry her lips were.
Leaning forward, almost falling off her chair, but with her arms still folded,
it seemed as though she was feeling terribly cold and hugging herself to
protect herself from some suddenly chilly air. Silence continued, numbed and
numbing, till she turned slightly aside to give a small cough, just to clear
her throat, it seemed. It was a dry cough. I thought she would look back to me
to say more things to me, but she didn't. She rested her elbow on the armrest
and then, turning further away from me, covered her face with both hands. I
felt sorry for her again. I knew that I had failed her expectations one way or
the other. But, though I very much wanted to help her out of her despair, there
seemed to be nothing I could do. I looked at the clock, and noticed that as
long as ten minutes had passed since she last uttered words.
I was tempted to
say to her, "Why don't you talk to yourself? There is no one here who can
hear you," but I didn't. She wasn't like me. She is a kind of person who,
so long as she speaks, wants or expects to be heard by someone else. Otherwise,
she buries her face in her hands and lets out sighs, keeping whatever she wants
to say to herself. I know this because I have seen her behaving like that a
countless number of times. And that was what she did at that time in that grey
room that seemed to bespeak lots of silent moments like that before - before
us, and obviously we are not the only human beings on this planet. So, well,
there you go, I thought.
I remember, not so
long ago, standing on a balcony surrounded by flowerbeds in the middle of the
night, with the room behind me filled with friends. Sandra was one of them. I
was watching my watch - there was something that needed to be done at precisely
such and such an hour, and I was watching out and biding my time, standing
there, drawing on my cigarette. Then I was falling into one of my dreamy states
when I saw Sandra, down there in the street, with her coat on, gesticulating
wildly at me to catch my attention. I immediately came back to myself and, I
don't know why, thought about trains and their compartments and hours-long
journeys. I walked back into the room and walked through my friends, some of
whom said some things to me, but I disentangled myself from them and ran down
the stairs. It was so dark there and it was a wonder that I didn't miss even a
single step and fall head-first down the stairs. I stopped at the door,
breathed in as deeply as I could, and then opened the door to step outside.
The moon was right
up there in the sky. There were some ten steps down to the front gate of the
house, with quite bad visibility, as there were trees on both sides of the
steps blocking the wider view of the street and partially blocking out the
moonlight. I now carefully took each single step, negotiating my way down,
telling my heart to stop beating so eagerly. When I came out onto the pavement,
Sandra was sitting there on the low wall of the house, and, when she saw me,
gave me a faint smile. I could see that she was afraid of something. We were
about to do something together. I had probably persuaded her into joining me
and she had probably never been sure if she should trust me.
Now I am what
she says I am now. She has given me all the facts. She has helped me. When I
had an interview with some whitecoats, they seemed to be resignedly satisfied
with me. Even Patricia, one of them whitecoats, broadly smiled at me when the
interview was coming to its end. In theory I should have got fuming angry at
her for behaving like that, as I thought we had been in love with each other,
but for some reason I didn't. I even smiled back at her.
I had got very
upset about my neighbour one night and Patricia came around. She happened to be
on call on that particular night. I was writing an article lying in my bed,
with the feeble aid of the bedside lamp. I had dropped my pen and it seemed it
had rolled off towards the bed of my neighbour. I pressed the button and
Patricia came to me, silently sneaking herself through my pale blue curtains
and leaning over me, saying, "What's the matter now?" I said to her,
"My pen's under his bed there...can you go and find it?" She obliged.
But she didn't leave immediately afterwards. She asked me some questions about
what I was writing. At that request, I simply handed my notepad over to her,
which she read, or tried to read, squinting her eyes, as the lighting was
meager, standing there. When she gave it back to me, she simply said, "I
see."
Patricia was
there at that interview, as I was saying. She certainly knew what the interview
was all about. I didn't feel angry at her. What I thought was, "Even she
is letting me go." I remember thinking, they are letting me go, even
Patricia is, so there must be something good waiting for me out there. Patricia
cannot possibly wish me anything ill.
All that I did
at that interview was to repeat what Sandra had taught me to those whitecoats.
It was raining
as I went out into the courtyard. I wonder where the sun had gone. The sky was
covered in thick layers of clouds.
このあとを書き継いでいないんだな。断片を放り出すという習慣は、もうそろそろ何とかしないと…。
(5.5.2009)
ここへ書き込むのは久し振り。2ヶ月以上もほったらかしにしておいた。何をその間やっていたのかと言えば、東京に戻ってから10月の末頃までは体調が急降下して、昼間の、最低限度をするだけで疲弊し切ってしまっていた。意地でも休講はするものかと頑張っていたが、その分、帰宅すると、もう横になって読書をするくらいの体力しかなかった。体調不良ということじたいについては、具体的なことは書きたくない。十数年来患ってきている持病があり、それが、ときには良くなったり悪くなったりするという、よくある話とだけ了解いただきたい。10月の末頃から何となく体調が幸いにも回復してきて、11月半ばまでにまとめなければならない原稿を、ほぼ期限どおりにまとめた。それをやってしまうと、今度はまた気が抜けて、家にいると理由もなく疲労感に襲われて、本を読んでいるうちにうたた寝してしまう。そんな状態に陥ると、また持病が悪化する。
仕事がなければまったく外出をしない性質であって、また、総じて、夕方にうたた寝をしてから深夜に起きて仕事やらあれやこれやをやる性質なので、1日か2日の休日のあと、出勤のために朝から外出すると、あまりにも日光が眩しい。サングラスをかけて職場に入るとにらんでくる同僚がいるけれど、午前中や昼下がりからの日光は僕の目にはつらいんだよ。涙目になる。
いくらか涼しくなってきたのはせめてもの救いか。10月中は、本当に暑さに苦しんだ。
睡眠をとる時間が不規則なのは、これはもう20年来そうなので、今更変えることはできないと思っている。午前中はまともに機能しないが、深夜になると活性化する。それが基本パターンなので、午前中から出勤の日は、総じて体調が乱れる。乱れても、回復が早ければ、さして支障はない。しかし、最近、歳ととったせいか、回復が遅くなってきた。それが持病を悪化させる要因の一つになっていることは間違いない。でも、それで別に何を変えようという意図もない。体調をまずは整えなければ仕事はできないという考えかたもあるが、僕は、そういうのは順逆が違うと思っている。体調なんかどうであろうがぶっ倒れるまでやりたいようにやるのが仕事だと心得ている。それは、仕事に限ったことではない。「健康」から開始される議論には、僕は耳を貸さない。
いつ頃からだったか、「健康カルト」的な発想をするのが常識である世の中になってしまった。何を話題に人と話をしても二言目三言目には「健康」である。もう、うんざり。ついでだが、僕は、健康診断など20年来受けたことはなく、医者には、平素から、痛みや何かが仕事に支障が出るほどにひどくなるまでは絶対にかからない。かかればかかったで、2回に1回の割合で医者と口論になる。たまったものではない。まあ、検査を勧めたりするとき、向こうには向こうなりの思惑があるのだろうが、こちらの要求は単純で、痛みを取る薬をもらえればそれで良いのである。ひどい話、ロクに診察もしてくれずに痛み止めだけをくれる英国の医療制度のほうがよほどましかと思うことも多々ある。痛み止めを飲んで、家で養生をしていれば、大抵の不調は改善する。飲む酒の量を減らしたり、睡眠をより多く取るようにするだけで、体調は総じて上向きになるものである。
こんなふうに考える人はもうほとんどいないかもしれないが、僕は、検査で自分の身体が数値化されることが大嫌いだ。これこれの数値がこういうふうにおかしいのであなたはこういう病気なのでしょう、というようなことを言われることに、僕には、尋常ではないほどの抵抗感がある。
僕なりの文学は僕じしんに発する。そんなふうに自分の身体を数値に還元するような思考の次元を持ち込んでしまったら、もう自分には文学はできないという危機感がある。このあたりはもうギャンブルに近い。体調がおかしいとき、医者にかかり、検査をして、その結果に基づいた治療をするほうが、まあ、長生きはできるだろう。だけど、そういうステップを踏んでしまうことで、失われてしまうものはないだろうか、と僕は考える。僕は、多少、体のそこここに痛みがあったり、不具合があるにしても、だからと言ってすぐに休講にして病院に行くのではなく、それに耐えて何とか目前の仕事をこなすことのほうを優先する。それは学生のためを思ってなどではない。僕が、自分のありかたはこうであるべきという考えに基づいての判断である。
それにしても、日々が過ぎ去るスピードがあまりにも速すぎる。もう11月も後半か。一応、10月初めの時点では、向こう3カ月間におよそ何をするか予定めいたものを立てていたが、これまでのところ、その半分もできていない。余計なことについて考え、不必要な本を読んだり、調べなくても良いようなことをネットで調べたり、また、そういう不毛な作業の成果を私信メールに延々と書いたりと、考えようによっては無駄なことをかなりやってきてはいる。こういうことを妻に話すと叱られるのだが、妻は日本語が読めないので、ここにこういうことを書いても、とりあえずは、安全。自分でも、毎日、反省してはいる。より良い時間の使いかたはないものか、としょっちゅう考えている。しかし、そんな問題設定には簡単で明快な解答などありえないところが、たまたま今自分が生きているということの面白い一側面でもある。いや、これ見よがしのことを言っているのではない。僕なりに本気で模索をしてはいるのだ。それでも、解答が見つからない。それで、連日、暗中模索ということになる。そんな中でする文学というのは、まるで暗闇の中で鬼火を見つめるようなもので、心細くもあるが、その辺は覚悟の問題であろう。そういう環境でものを書いたりしていると、いかに言葉を先鋭化させるかに意識が緊急に向かい、それは良いことなのだと思う。
生活人としての実感に欠けている?だいたい、僕は、「生活人」ではない。
2008年の次は2009年だな。なんて他愛もないことを頭の中で反芻する。数字というのには気をつけなければならない。病院の検査が数値で出るという話をしておいた。僕は、何が何年に起こったのか、特に最近の事柄については思い出せないことがしばしばある。それで良いのだ。およそ、「平成」に年号が変わってから、年数がまるでフルーツ・マシーンの回転する絵のように、訳が分からなくなってしまった。仕事で書かねばならない日付欄には、正確な年数が思い出せないので、出鱈目を書くことがある。西暦であれば分かるのだが、昭和だとか平成だとかになると、訳が分からなくなり、訳が分からない状態が続くのが嫌なので、出鱈目を書き込んで、とりあえず、その場から逃げ去る。
まあ、こんなことを書いておけば、巷で言うところの「ブロク」としては用を足すのかな。
では、また、近々、もっとまとまりのある書き込みができれば、します。
(19.11.2008)
前回の書き込みの続き。ベルギーの話。
アルコール度9度のDelirium Tremensというビールは美味かった。名前が何とも怪しげである。それが面白くて飲んでみた。正確に言うと、僕ではなくて妻が注文したのだが、僕は半分盗み飲みをした。ピンクの象の小さな絵がいっぱいついたグラスに入れてくれる。妙にサイケデリックな気分に、それを見ているだけで、なる。あとでインターネットで調べてみたら、こんなページが見つかった(http://www.delirium.be/)。このビールを紹介しているサイトなのだろうが、それよりも、ピンクのミニチュア象がカーソルに引っ張られて踊る何とも良くできたなデザインだ。味のほうはと言えば、割とあっさりしている。うちの「ローカル」のパブでもドラフトであるLeffe(http://www.leffe.com/index.html)だとか、どうもベルギーではごく普通にどこへ行ってもあるらしいCorsendonkだとか、僕は無難そうなものばかり注文していた。だいたい、ベルギーのビールは、まあ僕はラガーしか飲まないので黒ずんだものの味は分からないが、総じて、こってりとした味のものが多いのだが、それらと比べると、これは随分とあっさりしていた。度数が9度であるということと何か関係があるのだろうか。そう言えば、アルコール度数が高いほど、こってりした味は「雑味」と感じられることがある。どれほど風味や味そのものが良くても、アルコール度が高いと、だいたい味覚が麻痺してくるものだし、あの味この味と言う具合に味そのものにこだわるよりも、あっさりとした味で飲み口が軽いもののほうが美味しく感じられるのではないか。僕は、長年、スピリッツと言えば、ジンだとかウォッカだとか味がないものを好んできたので、そんなふうに思うのかもしれない。少なくとも、味の強いスピリッツは、大量に飲むものではない。悪酔いするよ。同じことはワインくらいの度数の酒についても言えて、味が良かろうが悪かろうが、それはどうでも良く、味が強いか弱いかのほうが、ある程度以上飲むと、問題になってくる。ビールはだいたい5度だよね。それくらいだと、よほどの量を飲まなければ酔わないので、酔うまでに、ボトルごとに飲むものを変えれば、それぞれの味を楽しむことができる。しかし、この、Delirium Tremensというのは、9度だ。度数だけから言えば、ビールよりもワインに近い。
こんなことを書いていると、何だか、飲んだくれ夫婦が酒飲み旅行に出かけただけのように思われてしまうかもしれない。それは誤解である。そもそも、妻は、20代の頃には深酒をしてぶっ倒れたりもしていたが、ここ5年くらいは、本当に飲む量が減った。今では、普段は、何か理由がなければ、飲まなくなってしまった。僕のほうは、近年は妻よりも飲む量は圧倒的に多いが、最近は、節酒に努めている。だからこそ、「たかが」ビールの美味しさをベルギーで再発見したのかもしれない。(なんて言うのはちょっと言いかたが大袈裟か。)帰って来てからは、せっせとスーパーでベルギーのビール(商品幅は狭いが)を買い込んで来ては、家で味見をしている。酔わない程度にしか飲まない。損をしたことと言えば、これまでパブで飲んでいたごく普通のドラフトがまずく感じられるようになってしまったこと。何とも、人間の味覚など、相対的なものである…などと、どうでも言いことに納得している次第。またしても誤解されては困るので、念のために言っておくと、僕も妻も、味に「こだわる」性質では元々ない。ワインでもウォッカでも何でも同じだが、特定のブランドを追いかけたりしないし、「各国ビールの味比べ」というような話題には関心がない。出されるものをただ飲むだけ。(もちろん、大雑把な好みというのはあるけれどね。)たまたま美味いビールに出会えればそれはラッキーかな、という程度の関心のありかた。あとは、値段は高いよりも安いほうを選ぶという方針が固まっているので、ドラフトで店にあるものを選びがちだということ。高いものは、高いというだけで避ける。と言うわけで、僕は、ブリュージュで、まずはドラフトで一番ポピュラー(当たり前)そうなのを飲んでいた。Corsendonkというブランド(http://corsendonk.apluz.be/)。特別に美味いものを期待していなかった分だけ、更に美味かった。
酒の話はこれくらいにしておこう。
前回の書き込みで、最後に、ベルギーでの人とのやり取りで「違和感」を感じたと書いた。どういうことか、簡単に説明しておこう。英語を話すベルギー人は、こちらが英語で話せば、こちらの言っていることは、字面の上では良く理解する。表層では、コミュニケーションは潤滑に進む。言葉の当たり前の意味が通じないということはない。英語でカジュアルな会話をすることには慣れているのだろう。こちらが何かについて尋ねているとして、用件が通じないということはない。問題は、ごく浅薄な意味で話が通じるかどうかというところにあるのではなく、「理解」ということのありかたにある。こちらが言うことの字面の意味はすぐに了解するのだが、そのあとの反応がおかしいのである。前回の書き込みで、ブリュッセルの駅の案内所での駅員との不毛なやり取りについてちょっと書いたが、あれなど典型的な例だった。「この切符でこれこれという列車に乗ることができるか」と案内所の女に訊いてみた。駅構内の時刻表に書いてある列車ごとの詳細事項によればかくかくしかじかであり、この切符に印刷されている細かな活字によればかくかくしかじかである、と細かく説明した。我々が、乗って良いかどうか訊いた列車は、我々が切符の活字を何度読んでみても、乗ることはできない列車だった。「それには乗れません」という返事がすぐに返ってくると思っていた我々の予測はまるではずれ、その女は30秒くらいしげしげと切符を見ている。念のため、切符のここのところに書いてあるこの事項が…と、二度三度、指差して彼女の注意を切符の活字の問題の箇所に引きつけた。で、確かに、彼女はそこを見てはいる。別に難しい英語が書かれているわけではない。ましてや、彼女は駅員であり、我々が見せた切符はユーロスターのごく普通の切符(のはず)である。なのに、こちらが何か言うたびにただうなずきながら、じっと切符を見つめている。書かれている英語が分からないはずはなく、僕が喋っている英語も、およその反応から判断するに、彼女は良く理解している。いったいにこの女は何を考えているのだろうかと我々が不思議に思い始めたタイミングで、彼女は同僚の男二人に切符を見せて、現地語(フレミッシュ?)で相談を始めた。男二人はまじまじと切符を見ながら、何かを言っている彼女の話を聞いている。流暢に相互にやり取りをしているので、彼らどうしのあいだに言語の壁があるとは考えにくい。だとすれば、なぜ、見慣れているはずの切符に印字されている一文を、呆然と見つめているのか。いや、僕と妻の目には、本当に、彼らは「呆然」と切符を眺めているように見えたのである。こちらとしては何事か、と、もちろん、思うわけ。だけど、結局、「大丈夫だよ」とかいうひどくいい加減な返事だけが返ってきた。
切符の記載事項をどう彼らが読んだのかは不明である。ひょっとすると、僕の思い込みとは違って、英語が読めないのかもしれない。だけど、ユーロスターの切符の記載事項は英語で書かれているのであり、ブリュッセルの駅の職員である以上、彼らは、切符に書かれている英語くらいは読めるはずである…。前述のとおり、我々は、切符によれば、我々は乗ることができない列車に乗った。そこでもまた変なことが起こったのは、前述のとおりである。我々は、そもそも乗ってはいけないはずの特急に乗っており、しかも、一等車のデッキに陣取っている。恐れていた検札が来た。彼女は、じっと我々の切符を見ている。別の車両に移れだとかくらいは言われるかと思ったが、「OK」の一言。いったい、何がOKなものか。我々は、明らかに、一等車に「無賃乗車」しているのである。切符をそもそもぞんざいにしか見ていないのであれば、それはそれで分かる話である。しかし、この検札の女は、我々の切符をじっくりと見ているのである。じっくりと見た上で「OK」と言っているのである。まあ、これは、ローカルな列車ではあるが、ユーロスターの切符を見たことがないはずは、まさか、あるまい。もちろん、こちらとしては、相手の反応が気になるので、じーっと相手の表情を見ているわけだが、まるで無表情。何を考えているのだか、まるで分からない。周りを見渡してみた。ブリュッセルからブリュージュの自宅へ帰る通勤の客が多いみたいだ。混んでいる。列車のデッキ部分にも、ところ狭しと、床に腰を下ろして読書をしている奴もいる。誰もが無表情である。少々、不気味ではあった。
話がそこまでであれば、あとあとまで残るような記憶にはならなかったかもしれない。検札がいい加減なのは、英国では良くあることだ。慣れている。しかし、同じようなことが、ブリュージュに着いてからも継起するのである。我々は、どこかで問題が起こることを予め予測して、かなり遅くにホテルに着くかもしれないという旨の電話を、出発前に、自宅からホテルに入れた。返事はと言えば、「空き部屋がいくらでもあるからいつ着いても大丈夫」。まあ、それは、安心材料だよね。予定よりも3時間も遅れてホテルに着いた。なるほど、部屋はちゃんと用意してくれている。しかし、タバコを吸う僕に気を遣って妻が喫煙できる部屋を予約してくれていたはずが、着いてみると、我々の部屋は禁煙だと言う。いやいや、それどころか、ホテル全室が禁煙なのだと言う。妻によれば、オンラインで予約をしたときには、細かな好みのオプションがあり、喫煙OKの部屋を選んだことに間違いはないと言う。しかし、ホテルに着いた頃には、我々は、「ベルギー・モード」に慣れ始めていたのだと思う。いちいち細かな議論をするのも七面倒くさいし、タバコならば中庭でいくらでも吸えるとレセプションの女が言うので、で、また、向こうは、問題はどこにもあろうはずがないとでも言わんばかりの笑顔なので、もう、こちらとしては、折れるしかない。
その後、荷物を部屋に置いて、遅い晩飯を食べに出かけた。まだ10時を回ったばかりだというのに、どこもかしこも閉店時間で、結局、30分以上も歩き回った挙句、ようやく、今から振り返ると明らかに観光客を餌食にする深夜営業のレストランに落ち着いた。サラダとムール貝とビールを頼んだだけで二人で85ユーロというのは高いなあ、とは思いながらも、腹が減っていて、背に腹は代えられないので、まあ、ここで良いかという判断に、妻と共に、相成った。さて、ウェイターたちとお喋りをしながら、意外に美味しいCorsendonkを飲んで、食事を済ませ、勘定書をもらったら、びっくり。勘定書は明らかにどこか別のテーブルの勘定書なのである。我々が本来もらうべき勘定書よりも20ユーロも安い。そのまま払って逃げれば、金銭的には得をしたはずである。しかし、我々のものではないその勘定書には、「コーラ」と記されていた。僕は、コカ・コーラ(あるいはその亜種も含めてすべて)は、一貫して飲まない、いやボトルに触ることさえも避けているので、頭にきた。(妻もコーラが嫌いである。)何ぼかの金を着服できるかもしれないにしても、まさか、「コーラ」と記されている勘定書を、僕は払う気はなかった。ウェイターを呼んで、いちいち細かく、これは我々の勘定書ではない所以を説明したのだが、彼の反応には、我々は拍子抜けした。「別のウェイターがオーダーを取ったので、私には分からない。」そんないい加減なことでは商売に差し障りが出るでしょうが…と言いかけたが、やめにした。だいたい、場所の「波長」が、向こうのものなのだ。所謂「ソロバン勘定」でベルギーでは万事が動いているということに、我々は、その時点で既に気がついていた。「えらくいい加減だな」と思いながら、我々は、帰途に就いた。
その後、ホテルに戻り、テレビを1時間かそこいら眺めたあと、何となく寝れないので、妻と一緒に、自前のウォッカのボトルを持参して、タバコを吸いに中庭に出た。8月末の割には、妙に肌寒い。午前2時くらいだったと思う。あるいは、もっと遅かったかもしれない。レセプションの女の子は交代していて、深夜勤務のイメージにはまるで似合わない普通の女の子がレセプションの植木鉢の草木に水をやっている。こういうところに来ればこんな仕事をしているこんな奴もいるのか…と、妙なことを僕は考えていた。そう言えば、”Not to Disturb”の札が部屋になかったので、それを口実に、声をかけてみることにした。彼女と話していると、何だか、時間は午前2時過ぎではなく午後2時過ぎではないかと錯覚した。明らかにしらふである。いや、まあ、しらふであることじたいに問題はないのだが、態度と声音の波長が明らかに正午か午後のそれなのである。マイ・ペースというか、何というか。こちらの要求を、彼女は淡々とメモに取る。「正午までは、クリーナーを部屋によこすな」等々…。妻は、あんなのは当てにできないと言い張り、”Not to Disturb”の札を、寝る前に手書きで作ってドアノブに掛けた。何が起こるか分からないので、万が一のときのための用心である。
総じて、英語が話せれば、あの町では、ホテルに泊まったり、店舗で買い物をするのに困るということはない。(ソーセージ屋さんのおばさんが意固地に4ヶ国語で喋るのには辟易したが。)しかし、ホテルにしてもレストランにしてもバーにしても、英語は通じるにしても、何か、話が通じていないのである。あるいは、通じているにもかかわらず、向こうの頭が変な構造をしているのである。一言で言えば、まあ、「いい加減」なんだね。ちょっとでも不明な点が出たり、いさかいの種が出たりすると、「OK」で終わり。それも、笑顔でであるので、こちらとしては困惑する。喜んでいいのか、それとも怒るべきなのか、往々にして、分からない。
ベルギーは、EUの中枢国である。ところが、英国とは、ほんの英国海峡で隔たれているだけなのに、あまりにも流儀が違う。彼らのいい加減さが発揮されるときには、必ずしも、彼らが商魂たくましく、彼らの得になるようにとの画策がなされているわけでもない。ただ単に、彼らは、恒常的に、「呆然」としているのだ。批判をするのは、たやすい。我々は、では、そのような国があるとして、どうしてそれはこのような妙ちくりんな国民性を獲得するにいたったのかを考えてみた。
それにしても、正直を言えば、何だか、誰もが、麻薬で頭をやられている国のように思われる…というのは、僕と妻の見解。「こいつらの頭の中では、思考の回路がどこかで断ち切られてしまっているのではなかろうか」というのが、我々の共通の感想。「スロー・ライフ」だとか「抗欝剤」だとか言って説明し切れるレヴェルではない。そういうレヴェルの調整差異であれば、我々にでも分節できるはずである。そんなものでは切ることができない曖昧さが、ベルギー人には、どこかしら、あるのである。おそらく、それは、言語的なものである。我々の思い込みに過ぎないのかもしれないが、どうも、彼らは、複数の言語を浅くても幅広く操る必要があるため、そのために、頭を少々やられてしまっているのではないか。
前回の書き込みから、一歩も先へ進んでいないと言えば、それはそうである。言語事情の話がしたかったのだった。そこへたどり着く前に、もう、時間がなくなってしまった。続きは、日を改めて書くこととしよう。
(14.9.2008)
このあいだ、ベルギーへ行って来た。ブリュージュという町。何でブリュージュなのかと言えば、理由はなし。強いて理由を挙げれば、飛行機を使わないでユーロスターを使って、比較的短時間で行けるから。ブリュージュを行き先に選んだのは僕ではなくて妻なのだけど、彼女も別に理由があって選んだわけではないようで、「何となく」だったみたい。だいたい、我々は、予定というものを立てない。どこに行くにしても、直前になって決める。今回は、行き先を決めて、列車やホテルの手配をしたのは、出かける前日だった。気楽なものである。しかし、妻にすべてを任せたのは、まずかったと言えばまずかった。出かける直前になって判明したのだが、妻は、ブリュージュがどこにあるのか分かっていなかったのだ。僕もまるで分かっていなかったのだけど。ユーロスターと言えば、妻は何度か使っていて、僕は使ったことがなかった。だから、僕は妻に旅程の判断を任せたのだった。「ブリュージュはブリュッセルよりも海に近いから、ブリュッセルに着く前に列車を降りればいいんじゃあないの」という、いい加減な妻の言葉を僕は信じてしまった。ロンドン出発とブリュッセル到着の時刻を見てみると、所要時間は約2時間。ブリュージュはブリュッセルよりも手前にあるならば、何と便利なことだろう…と、僕は、能天気に思ってしまった。出発の当日になって、はて、ブリュージュというのは正確に言ってどこにあるのだろうかと地図でさがして見ると、なかなか見つからない。ベルギーという国は思っていたよりも広いということを学んだ。さて、いざ、見つけてみると、どうも妙に北のほうに外れたところにある。ユーロスターの路線をまるで知らない僕でも、こんなところにユーロスターが行くわけがない、という嫌な予感がした。しかし、それくらいのことではいちいち詳細を調べないのが我々のすごいところである。だいたい、ベルギーが、そんなに広いわけがない。我々が使っている地図、The TimesのComprehensive Atlas of the Worldが、たぶん、不必要に緻密であり、EUの中枢がThe Timesに金を払うか何かして、ベルギーだけ詳しい地図を入れるように工作したのかもしれない。オランダを見ても、妙に詳しい。怪しい。まあ、ブリュッセルまで行けば、何とかなるだろう…というあたりで、我々は、調査を打ち切り、気持ち良く出かけてしまった。
ユーロスターはWaterlooから出るものと僕は思っていたが、最近、St Pancrasから出るようになったらしい。テムズ河畔の南側にあるWaterlooと比べると、何と便利なことか。St Pancrasなど、その気になれば、うちから歩いてでも行けるところにある。そう言えば、3年前に結婚をしたとき、役所があの近くで、式のあと、うちまで歩いて帰って来たものだ。タクシー代を捻出できれば、5分で着いてしまう。今回は、「ホリデー」なので、気前良く、旅行鞄は軽いのに、タクシーで悠々とSt Pancrasへ乗り込み、ユーロスターに乗り込む。昼過ぎに起床して、夕方にはベルギーでムール貝にありつけるという話は、あまりにも有難い。ゆえに気分は上々。列車に乗れば乗ったで、僕は、車両の細かなところを見るのが好きなので、ロクに座席に落ち着くことなく、フラフラと歩き回りたい。飛行機は嫌いなので、飛行機に乗るときは僕は、終始、読書をするが、列車となれば話がまるで違う。イングランドのどのあたりをこの列車は走っているのだろうかと興味深々で車窓の風景に見入る。妙なところを走っている。Kent方面にはときどき行くので、知っているところを通ればそれと分かるはず。ああ、このあたりはKentだなと思える風景が見えてきた頃には、もう、英国海峡のトンネルに入りそうな時間になっている。何だか騙されたような気分で、トンネルに入ると同時に、酒を飲みに食堂車へ。英国海峡というのはこんなに狭かったかと驚くほどの短時間で、トンネルを抜けてしまった。酒を立ち飲みしながら、意外にも空っぽの食堂車で、ユーロスターという「国際列車」で働く連中というのはどういう連中だろうかと興味深々、スタッフとお喋りをしていたら、あっと言う間に地上に出てしまった。フランスのはずである。あまりにもイングランドをすぐに出てしまったようなので、にわかには信じられないが、フランスにもう入っているのである。Kentでトンネルを掘ってKentでトンネルから出るという話は聞いたことがない。時計を見ていくら首をかしげてみても、どうも、フランスにもう入っていると判断するのが正しい。車窓の風景も、どうも、イングランドのそれではない。
最近は、僕は、つまらない理由から、酒はあまり飲まないようにしている。特に、原理原則として、日が沈むまでは、絶対に飲まない。しかし、ユーロスターで大陸まで出かけるとなれば、話は別である。例外というのは、設けるところで設けるのが良い。飲んだと言っても、たかが、ウォッカのダブル程度だが。
何とかという町に停車してから、列車はブリュッセルへと出発した。要するに、この列車は、一つ停車駅があるだけで、それを外して考えれば、ブリュッセル直行なのである。この地点まで来れば、あとは30分かそこいらでブリュッセルに着いてしまうらしい。平素、僕は、英国がEUの一部であるということを実感できない人間の一人だが、このときばかりは納得した。ブリュッセルのほうが、例えば、スコットランドへ行くよりも早いのである。だいたい、家を出てから、まだ3時間も経っていないのに、もう外国の首都に近づいているのだ。正直な感想としては、「これってちょっとインチキなんじゃあないの?」…などと思っているうちに、不意を衝かれて、あっと言う間にブリュッセルに到着。ブリュッセルまで来てしまったのだから、しかたがない、ここからブリュージュへ行く列車をさがさなければならない。慌てることだけは僕は平素から徹底的に避けているので、とりあえずは、街の風景を見るのと一服をするのとの目的を兼ねて、駅の外へふらりと出てみる。すぐに気に入った。猥雑なのである。こういうのは、僕は大好きなのだ。とにかく、汚い。
次の列車を逃しても良いので、妙に殺伐とした駅構内でコーヒーを一杯。ビールでも飲もうかと思ったが、まだ旅の先があり、おまけにブリュージュがどこにあるのか、ブリュージュまでどれくらい列車でかかるのか分かっていないので、まずはブリュージュ行きの列車の出発時刻を確認することにした。時刻表を参考にしたのがまずかったのかもしれないが、時刻表に書いてあるホームへ行っても、一向に列車は来ない。その代わりに、薄汚い車両が停車している。時刻表を読み違えたか何かミスがあったのだろうと思い、再度、階下のコンコースに戻り、さっき見た時刻表とは別の時刻表を見つけたので、それを見てみると、さっきのとは違うことが書いてある。恐ろしく嫌らしいことに、まさに我々が時刻表を見ているそのときに、別のホームから発車と書いてある。そこへ二人して走って行ったが、ホームに出たときに、ちょうど、列車は動き出していた。うーん。頭に来たので、今度は逃すものかと、もう一度、時刻表を確認しに、階下へ降りる。電光掲示板も見る。30分後に次のブリュージュ行きがあるみたいだが、何だか各駅停車みたいで、やたらと所要時間が長い。どうしたものかと妻と相談するために、再度、コーヒーを飲みながら話し合った。
ところで、我々が「コーヒー」と言うときには、ほぼ常にエスプレッソ。僕は、コーヒーにミルクが混ざったものなどコーヒーと見做さないし、妻は、ラクトーズだとか何だとかかんだとかにアレルギーがある。ついでながら、僕は、「紅茶」にはアレルギーが出てしまうので、飲めない。飲めなくて何ら不都合はない。ウォッカと紅茶なんて、一緒に飲めないでしょ。そういう事情で、コーヒーと言えば、多くの点で趣味がことなる僕と妻は、稀ながら、シンクロできる。しかし、あの日のブリュッセルに関してだけ言えば、それで気が抜けてしまったのか。「案内所」と思しきところへ行って、いったいに、この訳の分からない駅からブリュージュへ最短時間で行くためにはどうしたら良いものか訊いてみることにした。できれば、次の次に出る列車に乗りたいが、我々が所持している切符には、その列車(特急?)には乗れないと明記してある。ダメなものはダメでいいやという投げやりな気分で訊いてみたら、我々が見せた切符をしげしげと見て、「大丈夫だよ」とか言う。我々は、腹も減ってきていたので、罰金を取られたらそれはそれでいいやという覚悟で、切符によれば乗ってはいけない列車に乗った。いや、これが混んでいるのである。ちょうど通勤の時刻と重なったのだろうか。座るどころか立っている場所もないので、車両を移動していたら、空いているところがあった。ところが、周辺を観察するだに、どうも、そこは、一等車であったらしい。「もう、どうでもいいよ、早く飯を食いたい」と妻で共同して思い、検札が来なければいいなと思いながらそこに居座っていたら、検札が来た。ああ、やばい、と思ったが、検札の女は、ロクに切符を見もしない。我々は、意外なことに、そのままブリュージュに着いてしまった。その時点で、すでに、僕も妻も、ベルギーという国のいい加減さに泣き、喜んでいた。僕は、一等車のデッキでだらりとしながらウォッカをあおっていたが、誰も、そういうだらしない僕の挙動に注意を払うわけでもない。一人でカラオケをやり踊ってみたが、誰も注意を払ってくれない。ロンドンも開放的なところだけれども、ちょっと、波長が違う。ロンドンでは、あまりにもさまざまな人間どもが雑居しているために、「礼儀」として「相互不干渉」のルールがある。ベルギーでは、そうではない。周りに誰がいようが、誰もがまるで無関心なのだ。僕は、これには、心打たれた。「相互不干渉」というのは、まさに、こういうのを言うのではないか、と。ロンドンは、東京と比べれば、随分と自由な街ではある。しかし、人間が人間を監視するというのは常数だ。ベルギー人のあいだでは、そもそもその操作がなされないらしい。理屈で「相互不干渉」が取り決められている場所よりも、当たり前のように自然に誰もが「相互不干渉」モードで振舞う場所のほうが、はるかに居心地が良いことは言うを待たない。
妻も、これにはさすがに瞠目し、30分くらい、本気で、ここへ移住しようか、と話し合ったものではあった。
ブリュージュにようやく到着したのは、8時を過ぎた頃だっただろうか。我々のいい加減な予定では、午後6時頃には着くはずだった。1時間半もブリュッセルの駅をうろついていたのである。おまけに、駅からホテルまで歩いて行くところ、僕が地図を読み間違えた。酔っ払っていたからではない。単に、地図というものをしばらく見ていなかったので、いい加減な読みをしたのだった。駅からまっすぐ行けば歩いて10分のところを、変な方向へ歩き、ホテルを見つけるのに1時間もかかってしまった。すべて、僕が悪いのである。地図ならば男が読めば手っ取り早く処理できると思い込むのは、早断というものである。しかし、これは言っておかなければならないが、インターネットからダウンロードできるブリュージュの地図というのは、あまりにもいい加減である。ロンドンのA –
Zの偉大さを実感した次第。どこで手に入れたのかはもう忘れたが、我々の手元には、ブリュージュのれっきとした街路図があった。しかし、これが、まるで当てにならない。
ブリュージュの町のレストランは、およそ、ラスト・オーダーは9時半くらいのようである。5件くらい訊き尋ねてみたが、どこも入れてくれなかった。どこか近所でまだ営業していそうなところはないかと丹念に訊いたが、4件目までは、えらくいい加減な返事しかよこさず、我々は、かなり、怒り心頭に達するに近い状態となったものだった。5件目で得た情報を元に、ようやく、マーケット・スクエアなるところの深夜営業のレストランに辿りつき、肩の荷を降ろしたものであった。いや、それはもう、疲れた。疲れたぶん、余計に、レストランには長居をし、ホテルに戻ったのは午前1時を回った頃だった。かなりぼられたけど、深夜に食事をするのだから、しかたがない。
ホテルに帰れば、テレビを見るくらいしかすることはない。僕も妻も寝るのは相当に遅いほうなので、午前2時だとかくらいでは、まだ、起きていて、読書するなりテレビを見るなりしている。インターネットでホテルを予約したときには喫煙できる部屋を(妻が新設にも)取ったはずなのに、いざホテルに落ち着いてみると、部屋ではタバコはダメだと言う。頭にきたが、素敵な中庭があるので、そこで僕は早朝までタバコを吸っていた。あまりの静けさに、少々、不気味さを感じもしたけれど。ついでながら、泊まったホテルは、Hotel Academieという(http://www.hotelacademie.be/asp/asp/pagina.asp)。僕は、ホテル・マニアで、あれこれ注文があるほうだが、ここはものすごく良いところだ。
正直、僕は、大陸ヨーロッパにはあまり関心がない。だいたい、フランス語もドイツ語もロクに喋ることができないのである。ベルギーでは、英語で押し通したのには、かなりの違和感があった。ホテルやレストランで働くベルギー人たちは、「多言語使用者」だ。僕がたまたま英語しかロクに話せないために、英語で相手をしてくれたに過ぎない。感触としては、何だか、連中は、フランス語が嫌いなようである。ドイツ語でいくのが一番良いとの印象を持った。日本語は通じないだろう。しかし、ホテルのすぐ近くに、「たぬき」という日本食レストランがあった。客は来るのだろうか。
妻はドイツ語ができ、オランダ語とフレミッシュの区別もできるようなので、言語的には楽しかったらしい。僕は英語しかできないので、「ベルギー人が英語で話すときの訛り」だとかいうくだらない事柄にばかり専心していた。しかし、面白かっただけではない。問題をいくつか見出しもした。何ヶ国語もテレビで飛び出して来るような国には、それなりの問題があって当然だ。ブリュッセルの駅での経験から始まって、その後、ブリュージュでのそこここでの、あれやこれやについてのやり取りから、僕は違和感を感じざるをえなかったし、妻も、どうも、同様である。しかし、今日は、長くなるので、その話題は、また、後日、取り上げることとしたい。
(9.9.2008)
このあいだ、誕生日が過ぎた。また一つ歳をとったな、あんまりそんなことは考えたくないな、などと漠然と思っているうち、その日はあっと言う間に過ぎてしまった。雨が降ってはやみ、降ってはやみで、空は雲に覆われ、地上では風は強くないものの、上空では、雲が西から東へと走り、相当な風力が働いていることが分かる。それに見入る。霧雨が降っているけれども、傘をさすのは面倒なので、軽く吹いている風の方向をちらりと考えて、風を背にして立つ建物の壁に寄り添い、一呼吸をして、また空を眺める。悪天候のせいか、目の前のヴィレッジの広場にはほとんど人影はない。この風景を最初に見たのは16年前のことだったか、とふと思う。雲はどんどん走っているのに、僕は、また同じところへ戻って来ている…。
幸い、僕は視力が悪いので、風景の細かなところは見えない。16年前当時とは、店舗が変わっている箇所もある。この広場は、かつては車が通ることができたのが、その後、封鎖されて、今のように歩く人だけが使える広場になっているということも思い出す。事実としてそういうことは知ってしまっているので、それを思い出してしまうと、ふと正気に返るけれども、知覚の感度を何十パーセントか意図的に下げてみる。そんなこと、できるわけないか。要するに、ぼんやりとした気分に浸るということ。すると、何だか、右手の民家の庭の木々の葉が白い壁を覆うように茂っている様子までが、16年前と何一つ変わっていないような錯覚に陥る。左手前方にある薬局は、そう言えば、あの看板、16年前そのままではないか…。
あの頃を思い出すと、どの日も日曜日であるように思い出されるけれども、まさか毎日が日曜日であったはずがない。二十代の後半であった僕は、まだ、大学院の学生で、バイトをする経済的な必要がなかったこともあって、隔日に大学の図書館へ行って半日ほど詰めて資料を収集する以外は、時間的には贅沢であって、いつも、行きたいところへ行きたいときに行っていた。曜日というものなどどうでも良いような日々だった。月曜日も金曜日も、水曜日も日曜日も同じ。
だから、日曜日でなかった可能性が高いのだけど、僕の記憶では何となく日曜日となっているある日の昼下がり、この薬局へ何かを買いに僕は来ていた。その何かというのはとても大事な何かであって、それがないと誰かがとても困る何かであって、僕が薬局へ来ていたのにはかなりの必然性があった。買い物はすぐには済まなかった。店員が延々と、おそらく親切心からであろうが、あれやこれや商品について説明してくれて、僕は、買わなければならないものをさっさと買って、店を出たいのだけれども、なかなかそれができない。他に客がいないためか、店員は僕に話し続ける。いったい、いつまでここにいればいいのだろうか、と思う。薬局というのは、病院と雑貨屋の中間みたいな場所で、居心地はあまりよろしくない。身体のどこか調子がおかしいときにしかたがないから行くのが薬局であって、ふらりと入って、商品をながめていて楽しい場所ではない。また、店員が白衣を着ているのも妙に気になる。ああいうのは、「店員」ではなくて「薬剤師」というのだろうか。
往々にして、記憶というのは、重要事項をわざわざ選択的に忘れたふりをし、瑣末な細部を覚えているものだ。その日は、晴れていて、時間は、昼下がり。だいたい、僕は、昼前に起きているなんてことは、終生、なかったからね。例外は、子供の頃から、あれ、いつ頃までだったろうか、大学の教養課程くらいまでだったろうか。それと、三十代後半になってようやく仕事を始めてから、午前中に仕事が入っているときだけ。
右利きの人間は道路の左側の舗道を歩く習性があると思う。車道から何かが万が一にも突入してきたときに、上手くよけられるはずだからだ。あるいは、前方から誰かが、例えばジョギングしている輩など猛スピードで近づいて来るものだが、急に突進して来たときに、こちらは、右肩あるいは右半身全体を機敏に引いて、壁なりに貼りつけば、衝突を避けることができる。人と舗道でぶつかるというのは不快なことなので、こういうことは僕は、道を歩くときによく意識する。自分の左側に車道があるというのは、危ない。右利きは、何かをよけるときに、左足を軸にして身体を回転させるものだ。その左足が、不器用に車道側にせり出しているのでは、突進してくるものに対して受身の取りようがない。
なのに、その日は、道路の右側の舗道を歩いていた。と言うよりも、その道をヴィレッジの方向へ歩くときには、あの頃は、いつも右側を歩いていたのだ。理由は単純。出発点となる家が道路の右にあり、薬局も右側にあるからだ。車が大量に往来するような道ではなく、舗道を歩く人もあまりいないところなので、まあ、たかが5分の徒歩、間違った側を歩いても大過はあるまいと判断したのだと思う。どこまで、それが、意識的な判断だったのかは分からない。ただの習慣だったのかもしれない。いつも同じことをしていると、それを我々は習慣と呼ぶ。どういう判断をしたか、あるいはしなかったか、などと考えるから、頭が混乱するのだ。そうするのが習慣であったと、簡単に、言ってしまえばそれでケリがつく。で、嘘をついたことにもならない。
通りには、19世紀半ばに建てられた大型の家が立ち並ぶ。壁は、この通りの家々は、白塗りだ。「19世紀半ば」とつい書いてしまったけど、詳しくは分からない。そんなことは適当な事典で調べれば分かるのかもしれないが、最近は、僕は、調べるということが嫌になってきている。面倒くさいわけではないのだけど、事実関係を調べ続けているうちに、人生の時間が全部過ぎてしまったら、それはえらくつまらない人生だろうな、と思うからである。事実関係を調べる作業というのは、楽しくはあるし、それを系統だってやっていれば、大学の先生とかにもなれるかもよ。でも、あえて調べないでいて、物事を分からないままにしておくというのも、気持ちが良いもの。
舗道は白に近いような色だが、あの色を指す言葉は思いつかない。家々の前庭には大樹があり、その枝と葉は、ところどころで、舗道の上をアーチのように覆っている。屋内で何かが起こり、緊急事態めいたことになっても、玄関を出て、外の空気を吸い、歩行の自由を権利上得ると、一息つくことができる。一息ついてから歩き出す。表に出ると、時間がちょっと巻き戻された感じがするもの。何かから解放されたような感じ。用事があるから外に出たわけだけど、一旦外に出ると、用事は何となくどうでもいいように思えてしまう。一瞬の感覚だけど。部屋の中にいれば、舗道や木々の葉の色のことなど考えない。屋内では、言語が支配的だ。外に出ると、それが反転する。そこいらへんにいつでもあるものが、そこにあるのが当たり前ではないように、急に、感じられる。ここにこんな木があっただろうか。枝はこんなにしなっていただろうか。この家の玄関の扉の色は別の色ではなかっただろうか。
何を薬局で買ったのか、思い出せない。何か、できるだけ早く買いに行かなければならないものであったことだけしか思い出せない。曇り空の下、ぼんやりと考えたときにも思い出せなかったし、今、改めて、頭をひねってみても、思い出せない。
「いま、ここ」というのは、それはしかたがなくあるのである。「いま、ここ」というのは、そこから「未来」が展開しうる唯一の拠点のように錯覚される危うい地点である。その、見たところの可能性、人によっては「無限の可能性」などというが、そんなものに騙されてはならない。「いま、ここ」というのは、そういうものではない。仮に「自分」なるものがあるとして、それは、過去の集積に他ならない。一枚の葉を見て、それが何らかの意味をなすのは、過去に多くの葉を見たからである。新しさは古さの集積の中からしか立ち上がりようがない。人生において新しい唯一の出来事というのは、生まれることだけであって、それ以外は、皆、反復の相の下でしか認知されない。言葉の使いかた次第だろうが、新たな可能性などというものは、「いま、ここ」には存しない。そんなものは、過去において決定済みだからだ。同じ理由により、仮に新たな可能性なるものがあるとすれば、その起点は、「いま、ここ」ではなく、過去のほうにある。いつだったか、そう、あの日に起こったあのこと、今ではもうおぼろげにしか思い出せないあの出来事、この出来事、諸々に立ち返るのである。
一度起こったことは、永遠に起こり続ける。そんなのは当たり前だ。1993年の夏、スコットランドはSkye島をめぐるバス・ツアーの途中、土くれの斜面を一人で歩いていて、歩を止めた。(ガイドをしていたDennisさんは、当時、もう、60歳くらいのように見えたから、今頃はもう引退しているだろう。)バスが、前方50メートルか100メートルのところにある。この日も、やはり曇天。僕の友人は、病のために脚が思うように動かなかったので、バスがある道路から離れず、遠くから手を振っている。今でも、僕の頭の中では、その風景が、静止画のように残っている。そういう記憶はいくらでもある。で、「いま、ここ」にある(?)僕というものは、そういうものの集積に過ぎない。
「責任」というのは、過去において犯した罪なり何なりについて、事後的に意識すれば良いものであって、それ以上のものではなく、「いま、ここ」を起点にして、「未来」に投影すべきではない。このことについては、絶対に誤解は許されない原則がある。人生は今始まるものでなどありえるはずがなく、とうの昔に始まっている、というものである。「いま、ここ」において我々がとる行動というのは、すべて、過去の関数である、と言い換えても良い。「責任」への意識というものは、そういうものがあれば、それは良心的である。しかし、それには限界がある。判断は事後的にしか下されないものであり、今現在において、未来において過誤と判定されるような判断を賢く避けることなどできない。現在時制においては、そんな不確実な未来への配慮よりも、「いま、ここ」への、可能な限り単純な意味での充実だけを優先すれば、それで良い。人生の皮肉だが、「判定」とは、原則として、ラグをもって、他者がするものである。「主体」が、みずからについて「免責」できる範囲はあまりにも狭い。僕は、自分の「主体」には、徹底的に耽溺したいが、それが取る行動について「責任」を現在時制で感じるということはしたくない。
明るい未来とは陰鬱な過去のことであり、希望とは絶望のことである。まあ、普通に考えれば、そんな言いかたになる。それが、普通に考えることの悲劇である。無思考的に「いま、ここ」の楽しさだけを謳歌しようとすると、そういう矛盾に陥ってしまう。…などと、僕は、すぐに思ってしまう性質だけど、まわりを見渡せば、生涯、ずっと、楽しい希望の連続であったような人たちもいるのかな。うらやましい。
残念なことに、涙することができる資質というのは貴重だと思うよ。それを否定してしまっては元も子もない。
「愛」というのは、定義上、不完全なもの。「愛」というのは、定義上、利己的なもの。「愛」というのは、定義上、取り返しがつかないもの。だけど、「愛」については、また、別の機会に話をすることにしよう。
ところでさ、まったくの「余談」だけど、このHPにアップしたと思っていたファイルがいくつか消滅しているみたい。何がどうなってしまったのだろうか。それだけではない。パソコン上では、書いて、保存したはずのファイルが消える!
久し振りに、論文を書く申請をしてしまい、正直、ちょっと、戸惑っている。あれ?論文て、どんなふうに書くんだったんだっけか?論文を書くことのつまらなさって、分かる?誰も読まないんだよ。
(19.8.2008)
おかしな人は、ある程度いてくれないと困るという事情がある。もちろん、「おかしな」というのは、僕がそう感じることができればそれで良いのであって、ご当人は、自分がいたったまっとうな存在であると思っていて、それで何の差支えもない。こんなことを考えるときの、「引っ掛かり」と「滑り」、どうだろう、分かってもらえるかしら。嫌な奴を相手にすれば、当然、こちらは気分を害するけれど、しかし、得をするのは必ずこちら。そういうやり取りにおいては、向こうは得ずにこちらだけが得る貴重な何かがある。この感覚は、ほぼ確実に、「文学」が出発する起点の一つだと思う。…また、「夢」(寝ているあいだに見るあれ)というものも、精神分析がどうのこうのなどと理屈っぽいことを言わずしても、起爆剤になる。「夢」にあまりにも現実味があると、所謂「現実」のほうが虚構のように思われてくる。(何と陳腐な物言いか…しかし、真実は陳腐に宿るもの。)そんな感覚に流されっぱなしでは社会生活が送れなくなってしまうけれども、可能な限り、ギリギリのバランスで行きたいもの。
最近、どうもやたらに誤解されることが多く、で、誤解をされることから、最近、加齢と共に、自分でもちょっとシニカル過ぎるかなと思うこともある快感を得るので、誤解を解きたくないというひねくれた願望がありもするため、あまり単純に白は白、黒は黒という具合に解説したくはない一方、でも、ある程度の具体性は言うことに持たせなくてはまずいかな、とも、ふと思う。前段で「おかしな」人云々と書いたのは、もちろん一般論で、具体的に誰かを指しているのではない。「おかしな」というのは曖昧な言葉だけれども、この言葉で僕が意味したことには、必ずしも否定的な含蓄はない。僕の念頭にあるのは、人間各個がどれだけ変てこで嫌らしくありえるかというようなことではなく、色々なタイプがいる人間たちと自分とのあいだの波長を繊細に拾っていけば、あるいは、拾えるようになるために努力をすれば、それは、「文学的感性」の生成に資するだろうというようなこと。こんなもの定理になるかどうかは分からないけれども、「文学をやっているのであれば、おかしな奴、変な奴、嫌な奴とつき合って、損をするはずはない」と言えるような気がする。まあ、人間、色々いていいではないか。色々いれば、そのうちの半分くらいは、まあ、「嫌な奴」らということになってもおかしくないだろう。「おかしな奴ら」などと言おうものなら、灯台下暗し、だいたい、自分じしんが「おかしな奴」である。
文学的感性を持つというのは、ある意味、誰をも排除しないという態度を持ち、自分をも含めて、「おかしな」奴らを観察し、そこから何某かの洞察を引き出す力を持つことだ。基本的に、自分の「好き嫌い」にブレーキをかければかけるほど、その鋭敏さは増す。読者の側としては、「好き嫌い」などというフィルターがかかっていればいるほど、作品から吸収できる事柄は減じるのは自明の理。そんな線で考えてみると、理想の読者というのは、好き嫌いがない読者、個性がない読者ということになる。これは微妙だ。人間は多種多様であり、文学とは人間観察の媒体であるとするならば、読者は、各自なりの個性を読書体験に持ち込んで、全然問題ないのではないか。もちろん、問題はない。本屋へ行き、面白そうな本を買い、読んで気に入れば愛蔵書とし、気に入らなければ、捨てるなり、古本屋に売るなり、プレゼントと称して人にあげるなりすれば良い。しかし、そこまで行ってしまうと、もはや、その読者は「批評家」ではない。狭い意味での文学とはすなわち「批評的読み」をすることであるので、そういう読者は、狭義では、文学を鑑賞しているとは言えない。別に、文学を鑑賞するのに、所謂「批評理論」を正面から勉強する必要があるとは、僕は思わない。しかし、「好き嫌い」は捨てなければならないと、僕は思っている。
面白いのは、文学とは一見まったく関係がないような事柄について「好き嫌い」を明言する人たちは、総じて、批評眼に欠けるということ。そんなことは、「文学入門」という趣旨の本には、たぶん、書かれていない。単なる僕の経験則。
話は散るけれども、私見では、人間よりも先に言葉ありきと思えれば、しめたものだと思う。例えば、「誰かがとても面白い、かくかくしかじかのことを言ったけど、それは一言一句思い出せても、どういうわけか、誰が言ったのかは思い出せない」というような頭のありかた。これは、まあ、「証明」は長くなるのでここでは割愛するけれど、個としての人間の軽視ではない、ということだけは言っておく。むしろ、その逆。「誰それが何かを言ったけれど、何を言ったか思い出せない」というパターンのほうが、僕に言わせれば、人間と深く関わらない人たちから端的に聞く台詞。文学とは、人間に関わるものであると同時に言葉に関わるものでもある。人間は対象で言葉は媒体。媒体を抜きにして対象に直行できると考えるのは、文学的には、単なるバカ。読む一言一句、聞く一言一言をしっかりと吸収しようとするならば、吸収されたものはしっかりと頭に残るはず。残らなければならない。しかし、言葉の発信元の人間が誰であったかは、時が経つにつれ、相対的にどうでも良くなる。それで良いのだ。
続きは、またの機会に。
(8.8.2008)
ここにはもう2ヶ月以上も書き込んでいないことに、今、気がついた。何だか、最近、あっという間に時間が経ってしまう。ロンドンにようやく夏休みでやって来て、まだ1週間くらいだけれども、4月半ばから3ヶ月強、東京で働いていた記憶がもう遠のきつつある。そう言えば、あれやこれやをあの暑苦しいところでやったかな、というくらいのおぼろげな記憶しかもうない。一番良く覚えているのは、東京都足立区の韓国料理屋さん、金海園で何度かいただいた美味しい料理かな。金海園の「お母さん」、もしもこれを読んでくださっていたら、改めて、いつも美味しいものを出してくださり、このあいだもレバ刺しを「騙されたと思って食べて」ということで出していただいて、お礼を申し上げます。東京では仕事ばかりで疲れ切っている僕にとっては、最近、ほとんどオアシスになっているお店。そうか、これは書いておくべきか…僕は、今、ロンドンにいるけれども、ロンドンでは韓国料理屋は、まずほとんどないし、少数あるところは異常に値が張るので、僕は行かない。韓国料理のファンで僕はもちろんあるので、ロンドンでは苦しむことになる。勢い、東京に帰りたくもなったりする(?)。いや、金海園は、それほどに本当に美味しいお店なのだ。チェーン店の焼肉屋などには、もちろん、僕は行かない。上野界隈を歩けば、まだまだ美味しい店はあるにはある。しかし、僕のこれまでの韓国料理探訪歴では、金海園に勝る店はない。
「おいおい、お前は英文学やってるんだろうが。イギリスや、少なくともヨーロッパの料理はどうなってるんだ?」などと言われたりもする。知ったことではない。もちろん、韓国料理以外の料理だって僕は喜んで食べるけれども、好きなところへ行って食って来いと言われれば、僕は間違いなく韓国料理屋へ行く。韓国がなければ中華だ。ロンドンは、東京と比べると、各国料理の店がよりたくさんある。あれやこれやの店に行かないわけではない。まあ、僕じしんは所謂「グルメ」ではまったくなく、それどころか、各国料理を堪能すると称してあちらこちらのレストランを探訪する英国の中産階級と、外国人でそれにたぶらかされる連中には、正直、ほとほと嫌気が差しているくらいだけれども、ときどき、魔が差したり、知人の勧めなどで、各国料理を食べたりもする。それはそれで楽しいのだけど、一皮剥けば、僕の食の好みは一貫している。まずは、韓国料理が柱としてあって、その周辺に何となく、中華も含めて東アジアの諸国の料理がある。インド料理は、あまり食べないかな。日本食?寿司を除けば、総じて、嫌い。
英国での僕の食生活には割と一貫性がある。家で料理をするときには、サラダにはかなり凝るけれども、それ以外は雑で、パスタにペスト・ソースだとか、ラムのステーキを焼くだとか、いたって単純。妻が料理をすれば、何となくロシア風になるけれども、別に本人はロシア料理をやっているつもりはなく、冷蔵庫にある材料をただ活用しているだけ。僕は、日本食は作れないので、パスタばかり。いたって芸がない。外食は、基本的に中華。あるいは、東南アジア料理。ときには、ケバブなどもあり。実は、こういう食生活は、意外にまっとうに「英国的」なのだ。1990年代初めに留学で英国へ来た僕にとっては、当時から、何も変わっていない。1990年代半ば以降にロンドンへ入った人たちとは、明らかに認識が違うと思う。あの頃、忽然と、従来の中華やインド、あるいはケバブをまるで出し抜くかのように、色々な国の料理を食べることが、ある種、中産階級、ないしは文化人階級の証となるような文化が生成した。それは、いまだに続いている。僕は、それよりもちょっとばかり前にロンドンに入っていたので、感覚が違う。中華にありつければそれはすごい贅沢で、インド料理も行けばいつも楽しく、たまにはケバブで息を抜くという感じで、それ以外には関心がない。まあ、この点に関しては、僕は守旧派。更に、これは最近よく思うようになったのだけど、こういうの態度は、北ロンドンの中産階級特有なのかな。
何だか、自分の趣味をただ書いているだけと思われるかもしれないけれど、いやいや、話はそうは単純ではない。1970年代から僕は英学をやっている。まあ、それは、強みでもあり弱点でもあるわけだけど。ただ、自負があるのは、僕は、1970年代とまでは言わないまでも、1980年代の後半くらいからは、英国文化に目配りをしてきた。1990年代半ば以降のロンドンの文化に対して相対的な視点を取ることは、もう、ほとんど、本能になっている。悪口を言えば、ロンドンは、「多文化主義」だとか何だとか言って、ここ十年来、浮かれている。期間限定のある種のお祭りだと僕は思っている。それに、乗る気がしないし、また、自分の職分からしても、乗るべきではないと、僕は思っている。英国人たちさえもが妙に「多国籍化」していく中、僕は、ある種、孤軍奮闘中。
(3.8.2008)
最近、日本の大学の教養課程における外国語教育では、英語への一極化めいたものが進行しているらしい。従来、英語のほかにもう一つの外国語(所謂「第二外国語」)を必修とするのが習わしだった。それを必修科目から外している大学が、最近では、あると聞く。もしもそうだとすると、その理由として、二つのことを僕は思いつく。一つは、入試偏差値の低い大学に特に当てはまることだが、新入生の英語力がかつてと比べると相当に低下しているため、彼らにとっては外国語学習は英語だけでもう手一杯であって、それに加えてもう一つなど無理かもしれない、ということ。二つ目の理由は、英語に外国語学習を一本化することは、アメリカ主導の自由主義的市場経済システムに学生たちを適応させるのに(更に)資するということ。
ちょっと回り道をして、文脈の整理をしておこう。大学で教える第二外国語とはどういう言語たちなのだろうか。僕が大学生であった1980年代と現在とでは、ライン・アップがいくらか違うようだ。その昔は、まずはフランス語、ドイツ語があって、これらのどちらかを履修する学生が圧倒的に多く、それに続いてスペイン語、中国語があり、だいたいそれで終わりだったと思う。イタリア語を第二外国語でやるというのはなかったと思うな。比して、現在では、ヴァラエティーは膨らんでいるようだ。中国語、朝鮮語、ロシア語などが加わっている。まだ第二外国語履修を必修としている大学では、相対的にフランス語、ドイツ語履修者が目に見えて減っているようだ。躍進が目覚ましいのは中国語だろう。スペイン語は、元々、あまり人気がなかったので、フランス語、ドイツ語のように履修者が大幅減ということにはなっていないが、相変わらずその数は少ない。俄かに、最近、人気が出てきた朝鮮語は、これは、教える教員がそもそもいない大学が多いと思うが、いるところでは、かつてはそもそも第二外国語として存在していなかった言語なので、小規模ながら活況なのだろう。ロシア語は、これもまた教える教員を雇っている大学が少ないという事情があるが、朝鮮語と比べると、ちょっと元気がない。北海道の大学は例外かもしれないけれど。
統計を見て書いているわけではないので、事実誤認があったら勘弁してください。以上は、僕が、平素、一応、複数の大学に出入りしている者として、何となく持っている印象。僕は、語学科目では英語を教えるけれども、「教員室」でつき合う同僚には英語以外の言語を教えている先生たちが多い。そういう人たちから、色々と事情を聴く機会があるのである。
さて、上に挙げた二つの理由、第二外国語を必修からはずす大学が出てきている二つの理由について。まずは、一つ目の理由。これはね、ある程度はしかたがない。第一外国語の英語が、中等教育の6年間で教わってきたにもかかわらず、それでもまだできないのだから、そういう学生たちは、第二外国語をやれと言われても、困惑するかパニックするかグレるかするだけだろうというのは、想像がつく。だいたい、そういう学生たちは、外国語学習に関心がないのが多いのだろう。外国語を一つ教えても二つ教えても、さほどの違いはそもそもないというケースである。そういう学生が過半数を占める大学では、第二外国語は「選択科目」として残しておけば良い。外国語学習が総じて苦手でも、勉強したいという意欲だけはあるという学生たちは、実は、意外と、実数いる。第二外国語を必修から外すまではしかたがないとしても、少なくとも選択科目としては、大学である以上、残しておかねばなるまい。いまだに主流であるフランス語、ドイツ語だけでなく、中国語、ロシア語、朝鮮語なども開講しておきたいものだ。教養教育においては、ヴァラエティーが重要である。
言うまでもなく、二つの理由のうち、僕が問題として大いに懸念するのは、第二の理由のほうだ。アメリカを考えれば、外国語ごときなど、英語一本でもう十分だろうという発想に対しては、僕は、切りがないほどに異論がある。とんでもない。何で、外国語は数多くある中、しかも、アメリカの国力が年を追うごとに凋落し、国境社会においてもアメリカの立ち位置が問題視される中、英語(米語)一本で良いのか。逆である。米語離れを促進することこそ、今の日本にとっては喫緊の要請なのだ。英国英語に軸足を置くのであれば話はかなり変わってくるが、日本の大学における英語とは、つまり、「米語」だ。殊に、「実用英語」として米語を教えることには大きな問題が孕まれている。学生個人の趣味で、アメリカ中西部の文化が好きで、将来、移住をするために米語を習っておきたいというような希望がある、そういう特殊な例は、とりあえず脇にのけておく。
英語を教えるのをやめたほうがいいと言っているのではない。他の外国語たちと並べたときに、英語の比重を軽くすべきだと言っているのである。
あまりにも多くの学生たちが、大して深く考えもせずに、米語を勉強しておけば、将来、仕事に就いたときに、何となくご利益が発生するはずだと思いこんでいる。まだまだ彼らは明確には把握できていないが、メディアの言説などから彼らがおぼろげながら学んだ事柄の核は、アメリカ主導の自由主義的市場経済システムの日本国経済にとっての規定値性である。そうであるからこそ、TOEICという、くだらないどころか百害あって一利もない資格テストを真に受けるのである。今日は、言語について雑想を書こうと思っただけなので、政治の話には立ち入らないが、イロハだけは輪郭を提示しておく必要がある。ソ連邦の崩壊から数年後、1990年代の後半から、アメリカは冷戦構造崩壊後の無秩序な世界を経済的に制覇するため、世界各国の経済システムをアメリカ型に変更するようにとの圧力をかけた。(それ以前からかけていたが、この頃、急に圧力を強くした。)それに屈して、経理会計のやりかたを、この国でも変えたことなど、記憶に新しい。ビジネス文書も、なるべく英語で書くようにとの圧力がかかる。バカな日本人は、それは国際展開するための一歩だと考えるが、もちろん、それでは騙されてしまっているのであって、要は、何が起こったのかと言えば、日本の経済がアメリカの投資家に透明に見通されるようになったというだけのことである。もちろん、アメリカが大なり小なり世界経済に影響力を持っているあいだは、そうした流れに身を任せることから、日本国は、幾許かの利益を得るには得る。反米が徹底しているロシアでさえも、ある程度はそこから「漁夫の利」を得ようという素振りを見せたくらいだ。アメリカは、そう簡単には沈まない。しかし、当時から今日に至るまでの、日本人がアメリカを見る見かたは、明らかに正気を欠いている。1990年代後半にアメリカ(Clinton政権)が発動した「グローバリズム」経済が破綻するのは時間の問題だ。これは、もう、国際政治の専門家でなくても分かる常識である。日本は、この不透明な時代を生き延びようとするのであれば、「その先」を見据えなければならない。「その先」は、それはもう不透明である。でも、その視界の悪い将来を凝視しなければならない。
大学教養課程における英語教育が将来のビジネスマンの機動力を高めるものだというところまで百歩譲歩しても、英語一本化は間違いである。世界は、間違いなく、「多言語化」の方向へと展開していく。中国の台頭は間違いないし、ロシアも、必ずや、ある程度までは世界経済に関与してくる。米国が失墜すれば、EU圏内でも、英語国英国の言語的覇権は揺らぎ、相対的にフランス語やドイツ語が台頭してくる。特に、フランスは、アメリカがあろうがなかろうが、独自の世界経済制覇戦略を練ってきている国だ。フランスは、英語に依存するどころか、英語が失墜すればするほどに自動的にフランス語の力が増すような政治経済インフラを作ってきている。すごい国である。それに加えて、ブラジルの政治力、経済力も無視できないものとなる。更に、それに加えて、まだまだ石油を持つアラブ諸国がある。
国際経済の力関係が、そうした多極化に向かいつつある時代で今日はあるのに、日本では、なぜ、アメリカ一本なのか。アメリカの国内は、ご存じのとおり、貧富の格差などにより、崩壊状態である。今はまだ共和党政権だから、日本は相手にしてもらっているが、民主党が政権を取れば、アメリカにとっては日本などどうでも良くなる。
外国語学習が個人的な趣味の域を出ないという人たちに対して、メッセージ。僕個人は、英語と言ってもアメリカではなく英国に重点をおいて、文学研究はさることながら、英国の視点から、国際政治・経済をも見てきた。しかし、その他の外国語にも、僕なりに関心を常時持って、生半可ではあるけれども、勉強をしてきた。僕は、英語で飯を食っているので、英語からあまり距離を取るわけにはいかないけれども、新しい言語を学ぶ時間と金がある人もいるでしょう。英語(徳に米語)を捨て、何か別の言語をやるようにと提案したい。思い切り、文字を見ているだけで目が眩むタイ語だとかペルシア語を学ぶというとはどうだろう。朝鮮語は?アラビア語だった面白いかも。ロンドンにいると、結構アラビア語を耳にする。あなたがたがアラビア語を耳にしないのは、日本という国で使われている言語が、ものすごく日本語と英語だけに偏っているから。
こうした僕の「多言語意識」を、今年に入って、更に刺激してくれたのは、黒田龍之助氏。『ポケットいっぱいの外国語』(講談社)や『にぎやかな外国語の世界』(白水社)など、彼の専門のスラヴ系言語は言わずもがな、その他の色々な言語の紹介をも楽しくしてくれるこうした本は、僕たちの言語感覚をとても柔軟にしてくれる。学生諸君、本屋に行ったら、英語以外の外国語学習書のコーナーを見てみよう。
(1.6.2008)
もう、ここしばらく、東京の天気で体調を崩している。何度も書いてきたかもしれないが、僕は暑いのが極度に苦手なのだ。だいたい、20℃くらい以上の気温だと、もう、しんどくなり、25℃を超えると、対策を明確に立てて外出しなければならなくなる。30℃以上となると、それは僕にはもう「非常事態」で、決死の覚悟での外出となる。5月末のこの時期はまだ良いが、6月半ばあたりから僕の体力は臨界に達し、そのあとの1ヶ月は、「もうどうにでもなれ」くらいの覚悟をすることになる。暑さのために出勤の途中で具合が悪くなったり、勤務中に職務遂行不可能になったりしたことは、過去に相当回数あった。我慢できるところまではするが、僕は体が強いほうではないので、潰れてしまうこともある。
だいたい、5月の初めから半袖シャツしか着なくなる。4月からということもある。とてもではないが、スーツなど、着ることができるものではない。秋も、10月一杯、あるいは11月の半ばくらいまでは半袖だ。平素、仕事には、カジュアルなシャツとジーンズで行っているが、たまには、気分転換のために、スーツでも着ようかな、と思うこともある。しかし、それができるのは、本当に冬場、12月と1月くらいだけだ。
どうも、僕が苦手なのは高温だけではなくて、湿気も大きく絡んでいるみたいだ。日本の夏、初夏から秋までは、空気は相当に湿っている。これにどうも僕の体は着いて行けないみたいだ。よく思うことだけど、電車やバスの車内、その他の密閉空間の中では、冷房を入れないならば、せめて換気くらいはして欲しい。空調に「ドライ」という機能があるけれど、せめてあれだけでもオンにして欲しい。密閉された空間で湿度が高いと、空気中の水分が肌に張りついて汗と混ざるのがとても不快だ。
何だかんだで、僕は、もう、15年以上も東京の本当に暑い夏場、7月半ばから9月半ばくらいまでを経験していない。その時期は英国にいるからだ。1992年の8月に、留学のためにロンドンに、初めて夏場に行ったときのことは、今でもよく憶えている。8月の30日、汗だくで成田空港まで辿り着き、シャツはびしょ濡れで、飛行機(今ではもう使わない英国航空)に乗った。ロンドンに着いたあとのことも憶えている。余りにも気温の落差が激しいので、風邪でもひくかと思い、万が一のためにスーツ・ケースに詰めておいた薄手のジャケットを羽織った。当座のところ泊まることになっていた宿泊施設へ行く前に、英国政府絡みの機関のオフィスを訪れねばならず、学寮に車で案内されたのはもう深夜のことだった。夜風がひどく寒く感じられた。同じ日の朝には亜熱帯の東京の夏の暑さで喘いでいて、まだそれから半日しか経っていなかったわけだから、体が気温の落差に着いて行けなかったのは当然だったのだろう。部屋に荷物を置いたあと、真夜中のロンドンをちょっとだけ散歩した。寒さに震えていたかもしれないけれど、とてもすがすがしかったのを今でも憶えている。
翌日から、早速、大学の語学講座へ行かなければならなかった。この日のことは、まるで昨日のように、今でも、鮮明に憶えている。気温は、到着した前の日よりも更に下がっているようだった。雨が間断的に降り、時間帯によっては、かなり激しくも降っていた。1992年、8月31日。風が横殴りに吹いていたのも憶えている。まさか、こんなのが8月の天気であろうか、と思った。
あの頃、1年だけ、ロンドンでも非常に暑い夏があった年があった。1993年か1994年のどちらかだったはずだ。その頃にいた学寮で、その夏は最上階で西側に面した部屋に僕はいたので、ロンドンでは珍しい酷暑の煽りをかなりモロに被ることになった。何せ、冷房などない。午後、大学へ行かずに部屋にいようものなら、まるでオーヴンで焼かれるような感じで、とにかく外へ出なければ具合が悪くなってしまう。その学寮はHyde Park/Kensington Gardensに近いところにあったので、それが幸いした。本を何冊か抱えて、公園に出かけて行って、そこで読書をしていた。ロンドンの夏は日照時間が長いので、夕方7時頃までは悠に外で読書ができる。英国の夏は乾燥している。おまけに、風がよく吹く。30℃を超える日が、その夏、連日、続いた。しかし、屋外にいればそれはさほど気にならないし、部屋に戻ってもあまり気にならない。
その後、8年間、ロンドンで続けて暮らし、英国の天気に慣れてしまった。夏場で気をつけるべきは、暑さではなく、ときどき訪れるまるで冬のように寒い日々のほうだということも学ぶ。その後、2000年からだけれども、1年のうち、一定期間、東京で仕事のために過ごすようになり、もうそれから8年が経つが、いまだに夏場の東京の湿気には体が対応できないでいる。だいたい、毎年、7月の15日から20日までは東京にいなければならず、その間に、湿気は言わずもがな、気温も恐ろしいほどに上昇する。だいたい、ロンドンの真夏の天気というのは東京の4月の天気に相当するので、ロンドンの天気に慣れてしまうと、もう、4月、5月以降の東京の暑さには適応できなくなる。何だか、亜熱帯の東南アジアに出稼ぎに来た英国人のような気分で、最近は、ある。しかたがない。下宿(ほとんど「事務所」と化している)にいる間は空調全開で仕事にいそしみ、外出するときはほとんど「戦闘態勢」だ。あと1ヶ月半ほどで、この苦行からは解放される予定だ。
日本にいて、最近、よく思うのは、「低体温症」の人間がいかに多いかである。新陳代謝が鈍い「新人類」だ。僕よりも、同じ気温であっても、体感気温は10℃以上は違うらしい。彼ら彼女らは、湿度にもいたって鈍感なようだ。僕がTシャツ一枚で汗をかきながら頑張っているところで、彼らは上着を着て平然としているのだ。
僕は、最近、体力の限界を感じることが多くなった。東京で電車に乗っていると暑さや湿気のためにぐったりとしてしまう。職場でも、「エコ」だか何だか知らないが経営上の横暴から空調を切られ、息が上がってしまう。自宅で冷房を続けて入れていると、電気代がかさむ。もう、四面楚歌だ。求められている仕事はこなしてはいるが、正直、長くはもつまいと思っている。確かに僕は特異体質で、暑さに弱いその弱さにはいささか普通ではないものがある。でも、僕がどんな特異体質であるかなどについて、日本の社会は情状酌量をしてはくれない。また、大方の日本人が、こういう気候に対処できているのであれば、おかしいのは僕のほうだということに、当然、なる。
日本を去るのには遺憾の念もあるが、しかたがない。最近、英国へ恒久的に移住する案を練っている。表向きには、そんなことを考える理由は、日本の社会がおかしくなっているからだというようなことを、知人たちには言ってきた。しかし、実情は、違う。日々の生活において、こういう気候環境では、もはや僕は機能できなくなりつつある。それが、僕が日本を去ろうと考えている最大の理由だ。
(20.
5. 2008)
危険のススメ。
と言っても、階段を3段跳びで降りようだとか、戦争が行われている外地へ行こうだとかいう話ではない。
僕が小学生の頃、1970年代初めから半ばくらいの頃、子どもたちは随分と危ない遊びをしていた。両手離しで自転車に乗って道の角を曲がるだとか、グランドの周りの高いフェンスに上までよじ登って反対側をよじ降りるだとか、団地の階段脇の外壁についている雨水排水パイプを3階くらいまでよじ登って階段の踊り場に転がり込むだとか。近所のおばさんたちによく叱られたものだけど、それで危ないことをやるのをやめるわけではない。かえって、もっともっとやりたくなる。自転車の転倒など何度やったか覚えてないくらいやったし、2度は車に轢かれかけた。高いところから飛び降りるという「競技」もよくやっていて、それでも何度か怪我をした。公園の低い塀を馬跳びしようとして足が引っ掛かって顔面から地面へ落下なんていうのもやった。
喧嘩もときどきやっていて、結構な怪我をしたことがあった。仰向けに地面に押さえつけられて後頭部を何度も駐車場のコンクリートに打ちつけられたときは、かなりの流血で、危なかった。今から思うと本当に乱暴なのだけど、喧嘩の相手頭を石で殴るなんてこと、割と平気でやっていたのだよな。
原因は喧嘩であれ事故であれ、怪我は自分が好きでするものだという意識が明確にあった。好きで危ないことをするのだから、誰にも止められたくない。「死んだって僕の勝手だろ」までの意識があったかどうかは覚えてないな。たぶん、なかったのではないかな。ひたすら、本能的に、ただ危ないことをやりたかった。
あの頃から、「知らない人にはついて行かないこと」だとかいう標語はあったけど、ヤクザのお兄さんたちにひょいひょいとついて行ってしまったこともある。今から思うと、あれは一種の「誘拐」ということになってしまっていた可能性もあったのかな。でも、そういうのは言葉の彩で、僕にとっては「冒険」であったわけ。「危険」という意識はあったかもしれないけど、でも、それはスリリングで、そこから逃げようなどとは考えない。
僕の、当時はたぶん僕よりも随分と早熟で賢いことをよく言っていた妹が、たぶん誰かが言ったことを引用していたのだと思うけれど、こんなことを言っていた。子供時代というのは危ないことが一杯あって、死ぬ危険も当たり前のようにあって、生き延びることができればラッキー…だとか、確か、だいたいそんな趣旨のことだったと思う。
で、実際、周りで何人かの子供が死んだりもした。僕は、そういうのには疎くて、「あ、死んじゃった」くらいの反応しかしなかった記憶がある。一人、僕が知っていた男の子の弟が、文字通り、僕の目の前2メートルくらいのところで、事故で死んだ。それをたまたま僕と一緒に目撃した友達は、ショックで何日か食べ物が喉を通らなくなってしまったと聞いたけど、僕は、正直、「バカだな、あんな自転車の乗りかたをするなんて」と、その瞬間、思った記憶が今でも鮮明にある。実際、後ろを見ないで交差点を突破しようという基本的なエラーをその子はしていた。自転車乗りがうまく、「アクロバット」があれこれできると自負していた僕は、単に、「そんなに下手なら自転車なんか乗るな」と、非常に冷たいと言えば冷たいことを思った。妹が言っていたとおり、子供時代というのは、危険に満ちていて、ある種の「サヴァイヴァル・ゲーム」だと、たぶん、僕は、当時、考えていた。と言うより、およそそんなものだということを、漠然と受け入れていた。
当時の感覚では、「骨折」までしてしまうと割と重大な怪我と認知されたけど、それ以下の程度の怪我なんか怪我と見なされていなかった記憶がある。だいたい、体のどこかに傷がなかったことなんかなかった。
周囲の大人たちも、今と比べると、「危険」だとか「怪我」だとかに関しては、ものすごく疎かったと思う。怪我をして家に帰って、親が大騒ぎした記憶なんかまったくない。野球でキャッチャーをやっていて、空振りしたバッター(今でも覚えている、とにかくキザだったH*****君)がアホなことにカッコをつけてバットを投げて、その先端が勢いよく僕の左目上を直撃して、それはもう前後左右も分からなくなるくらいの衝撃で、何がどうなったのかと僕は面食らったわけだけど、それなりに重傷を負ったのは事実で、半日もすると自分の顔は、額の腫れのために、まるで妖怪か何かのように変わっていくわけ。その間、左目の神経がやられてしまったのか、何を見ても焦点が合わず、二重に見えていた。左目は、内出血か何かのために白目は真っ赤になるし。でも、それくらいでは、僕の親は騒がなかった。病院へ行って来いというので、一人でトボトボと行って来た。
だいたい、理由は何であれ、怪我をすると、親からは「バカ」だとか「アホ」だとか罵倒はされても、今風に言うと「ケア」などされた覚えがない。それで、僕のほうも、まあ怪我はしないに越したことはないから、「そうか、自分はバカ、アホなのか」くらいに受け止めていたのだと思う。
しかし、今からそういう古き良き時代を振り返ると、大きな収穫があったものだと思う。色々と危ないことをやって、なるべく怪我をしたり死んだりしないようにと頑張っていると、「サヴァイヴァル」のためのノウハウが何となく身につくもの。それは、技術的にまずそうだし、それに加えて、更に大事なことに、精神的に誰かを頼るということをしなくなる。例えば、信号機なんて、たかが一応の行動規則の目安であって、まさかあんなものを僕の生命を保証するものとして完全に信用するなんて、そんなことは考えられないという態度が身につく。自分の目の前の信号機が「青」だからと言うだけの根拠で、周りを見ないで歩きだしたら、それは死を意味する…今日にいたっても、僕はそう考えて、交差点に対処している。階段を降りていて、後ろから誰かが僕のあとについて降りてきているときには、さりげなくそれが誰かを一応は確認するようにする。この世には、僕には分かっていない理由から僕のことを死ぬほどに憎んでいて、後ろから押して僕を突き落とす奴がいてもおかしくないからね。いずれにしても、誰がどういうしかた、あるいは理由から僕に危害を加えるにしても、「やられて」しまったら、それは僕が迂闊だったと僕は考える。人のせいには絶対にしない。
いつだったか、ニュースで、どこかの公園で遊び道具の何かが壊れていて、それで遊んでいた子供が怪我をしたとか何だとか言っていたけれども、僕に言わせれば、そんなのはニュースにする必要なんかない。それを受けて、全国の自治体が全国で同様の遊戯装置のチェックを数百ヵ所で行いましたという追いかけニュースは、正直、噴飯ものだった。
僕が言いたいことの要点はこういうこと。最近、「安全」がどうのこうの、「こういうああいう危ないものがあると不安」であるとかどうのこうのとよく言われるけど、保身の基本は、自分で状況を見抜くことに尽きるということ。環境が「安全」に整備されていて、それに依存して不注意な行動を取ってばかりいると、いざというとき、何かが壊れていたり、あるいは外国へ行ったりしたときに、危機管理能力がなくなるよ。仮に自分が一見したところ自分の責任ではない事情で怪我をしたとする。大事なのは、そんな状況に自分の身をおいてしまったことの愚かさを徹底的に自省すること。絶対にやってはいけないのは、責任を「管理者」だとか「自治体」だとかに押しつけないこと。法的には自分が他人の責任を問う権利を持っているにしても、それを安易に行使しないこと。それは、僕の美醜感覚からするととても醜いこと。それだけではない。そんなでは、いざというときに、本当に大怪我をするよ。
(9.5.2008)
ロンドンではバス路線の多くは、地下鉄の「上」の道路を走っている。貧しい者はバス、比較的に金持ちは地下鉄という大雑把な仕分けがなされていて、その違いは、両方に乗ってみれば、すぐに分かる。「ロンドンに来た以上はあの有名な二階建てのバスに…」という気分も分からないではないが、ここに住む者たちにとっては、バスは、基本的に貧民が使う交通手段という了解がある。もちろん、バスは、周辺の風景が見えて楽しいというボーナスがあるにはある。しかし、あまりにも運行時間が当てにならないために、どうでもいいような用事で乗る人間しか使わないものなのだと思う。仕事でどこかに何時何分までに必ず行くようにと言われたら、まあ、誰でも、地下鉄のほうを使うだろう。
僕は、時間に制約がなければ、バスを使う。路線によってはかなり頭がおかしいのが乗ってくるケースもあるが、僕は、まあ、どんなのにも慣れているので、意に介さない。時間に余裕があれば、基本的に、バスが選択される。
しかし、僕は、生来の怠け者なので、約束の時間に間に合うギリギリの時間に出かけることが多く、運賃はかさんでも、地下鉄を選択することが多い。運賃の格差は結構大きくて、地下鉄とバス、どうなのだろう、倍くらいは違うんじゃないかな。Oyster Cardというやつで気前良く払って乗っているが、毎回、2.50ポンドくらい引かれているような気がする。東京の地下鉄や郊外私鉄の料金と比べると、法外に高い。
所得税率もものすごく高いし、消費税(に相当するもの、VATという)も高率であり、いったいに、平均的なロンドン人は、どう生計をやり繰りしているのだろうか。
と書いてみたところで、ふと思うのだが、「平均的なロンドン人」なんて、いないんだな。貧富の差はあまりにも激しく、新しい移民たちが(おそらく)なけなしの身銭を切ってバスに乗るしかない一方で、金持ちは地下鉄さえも使わず高級車を乗り回している。
東京の場合と比較して、よく考え込む。貧富の格差がこれだけあって、この社会はどうやって機能しているのだろうか。
ロンドンと東京を比較すれば、いくらでも違いは出てくるが、で、また、そのすべてがおそらくこれら二つの都市の機能のしかたと関係しているが、とりあえず、二つ思いつくことがある。
まずは、ロンドンは、いったいにどこの国の首都なのだか分からないほどに、外国人が流入し、あれやこれやの活動に適当に従事している、ということ。東京では、「外国人」は、よほどちゃんと官憲のチェックを受けた上でなければ、経済活動はおろか日々の生活さえもが営めない。「意味不明」の外国人に出会うということは、日本では、まず、ありえない。ロンドンでは、しかし、むしろ、それが常数だ。「何でこいつがここにいるのか」という輩が、そこいら中にいる。最近のEU諸国からの移民たちの行動の自由の幅は大きい。それに加えて、EUがあろうがなかろうが、とにかく世界中から人間が集まり、英国政府は、少なくとも短期的には、そのほぼ全員を受け容れる。日本では、こんなのは考えられない。ロンドンは、本当に、雑居世帯都市である。
新しい移民たちの多くは低賃金労働に就くが、粘りがあるので、そう簡単には辞めず、粘りに粘る。勢い、最低賃金水準は上がらず、赤貧状態での「ロンドン生活とはこんなものか」的な了解が大規模に出来上がる。大金が湯水のごとくに流れるのを脇目で見ながら、彼らは彼らなりの文化を形成する。それには外国人だけが関わっているわけではなく、金銭欲のない英国人、あるいは教育や職能のない英国人たちもそこに参与している。
…と、ここまでを書いたのはいつだっただろうか。今、もう5月で、東京に戻ってきて1ヶ月近くになるが、戻って来てからはこのコーナーに書き込みをまったくしていなかったから、まだロンドンにいた頃、3月の末頃か4月の初め頃に書いたものと思われる。書くのを中断したみたいなので、たぶん、東京へ飛ぶ間近、4月の初旬だったんじゃあないかな。
自分が東京に移動して、ロンドンを離れてみると、ロンドンと東京の違いは更にくっきりと意識される。すべてが秩序化された東京と比べると、ロンドンはものすごく混沌とした場所に思えてくる。ロンドンがどういう街であるかについて関心がある人は結構いると思うので、もうちょっと書き継いでおこう。
そこに住む人間については、ロンドンは、東京と比べると、ものすごく雑多だ。首都のロンドンだけでなく、その他の英国の都市も、最近は、大なり小なり似たような雑多傾向があるみたいだけど、僕はロンドンしか直接にはよくは知らないので、ロンドンに話を限定しよう。東京にだって「外国人」はいっぱいいるではないか、という反論があるかもしれない。確かにそれなりの数がいるけれども、ロンドンは東京の比ではない。どこかで読んだか聞いたかした話だけど、ロンドンに住む人たちのおよそ半数が外国生まれだそうである。半分だよ。彼らのほとんどは、もちろん、英語を話すけれど、母語は外国語なんじゃあないかな。日本では、「外国人」でやたらと日本語に達者な人がいると妙にもてはやされたりするけれど、ロンドンでは、それはありえない。だって、まあ確かに最近ロンドンへやって来たばかりであまり英語が上手くない人もいるにはいるけれども、ロンドンの「外国人」の英語は、総じて、かなり上手く、ネイティヴと区別がつかないようなのも結構いるんだからね。別に、「外国人」がとても上手い英語を話していても、誰も振り向いたりはしない。これは、ここ10年くらいの異常な数の移民(主に、東欧諸国からの移民たち)がやって来る前から、もう既に、何となくあったロンドンの「多文化性」の証左で、僕が留学でロンドンで暮らすようになった1992年当時から、そういう空気は既に何となくあったと記憶している。僕なんか、どう見たって東洋人(あるいは東シベリア人)であって、よほど視力が悪くなければ、僕を白色人種と思う人なんかいなかったはず。でも、留学の当初から感じていたんだけど、ロンドンで学生風情をしているだけで、人種は何であれ、とりあえず、英語を完全に話す英国人だと思われてしまうんだよ。
話がちょっと脱線するけど、1993年頃だったかな、友人のR*****君(現在、ロンドン大学講師)がHyde Parkで土曜日にサッカーをやっていて、膝の皿を割るという怪我をした。彼のガールフレンドと一緒に病院へ駆けつけて、まずはR*****君の怪我の状態について医者から話を聞いて、帰ろうとしたら、病棟の看護婦たちが6人集まって、お喋りをしているのね。で、そのうちの一人が僕のところへ来て、「あなたが何人か当てるゲームをやっているの」とか言う。これは今でもはっきりと覚えているんだけど、その看護婦に訊いてみたら、6人のうち3人が僕は「英国人」だと言い、1人は僕は「アメリカ人」だと言い、1人は僕は「中国人」だと言い、最後の1人は僕は「モンゴルかどこかそのあたり」だと言う。全員の予想は外れなわけだけど、面白いのは、半分が「英国人」だと予想したということ。当時から、東洋人でも、ロンドンで暮らしている限りそいつはおそらく英国人であろうと考えるのは、割と普通だったんだな。
考えてみると、そういうふうに、「ロンドンにいること」=「英国人」という等式で考えるのは、その後の大量の移民の流入によって、今ではあまりもう当たり前ではなくなってしまったみたいだ。まだ東欧からの移民がほとんどいなかった1990年代前半当時、ロンドンに住む「外国人」の数は、今では想像もつかないほど少なかった。でも、と言うか、だからこそ、ロンドンに当時既にいた「外国人」は、「外国人」のように外観は見えても、昔からロンドンに住んでいる「外国人」であって、実質上は「英国人」だと、誰もが思っていたんじゃあないかな。「外国人」を「取り込む」力は、これは東京と比べると違いはあまりにも顕著なんだけど、昔も今も、ロンドンは非常に強い。
最近は、あまりに短期間のうちにあまりに大量の移民が入って来たせいで、ロンドンの、あるいは英国の文化に同化していない「外国人」が目立つ。中には、ロクに英語が話せないのもいる。でも、そういうのでも、さして英国人たちやら「旧移民」たちやらとの違いがあまり際立たないような文化環境ができ上ってしまった。「外国人」は少ないながら、皆、大なり小なり英国文化に同化していた頃と比べると、確かに隔世の感がある。でも、当時からあったロンドンの「多文化性」は、その後の展開を自然に「骨抜き」にするような素地として機能した節があって、現在では、必ずしも英国文化に同化していない「外国人」でさえもが当たり前のようにそこいら辺にいる環境ができている。
そういう「外国人」はあざとい英国人の企業経営者に搾取されがちであるなど、「社会学」的には問題もあるにはある。でも、街の空気として、彼らの存在に違和感がないというのは、それは特筆すべきことだと思う。搾取されていようが、その結果、極貧の生活を強いられていようが、そういう人間がそこいら中にいて、違和感がないのだ。上に書いたように、中には、どこの馬の骨とも知れないようなのもいる。何で、こんな奴がそもそもロンドンにいるのかと、つい思ってしまうような輩。でも、そういうのがあれやこれやいて当たり前という空気が、最近のロンドンでは支配的なのだ。
あまりにも雑多な人間どもが、今日のロンドンにはひしめいている。東京では、人間は、だいたい、「日本人」か「長期日本にいて日本を知っている外国人」か「日本をまるで知らない短期滞在の外国人」に、およそ分類されると思う。そういう大雑把な分類さえもがロンドンではありえない。入国にかかわる規則に照らしても、「不法滞在」なのではないかと思われる分子も相当にいる。要は、もう、滅茶苦茶なのだ。日本国における「日本人」と「外国人」の区別でロンドン在住者を見ようとすると、訳が分からないということになる。「規則は一応あるが、例外もいくらでもある」というあたりが、まあ、ロンドン在住者の構成について一番正確な説明なのではないかな。
しばらく前に前半で書いたことへの続きとしては、あまりまとまっていないことしか書かなかったかもしれない。でも、まあ、今現在は、ちょっと生活が雑然としているので、頭の整理のしようもなく、これくらいで勘弁してください。では、また。
(8.5.2008)
「チョコレート・バー」をおやつにかじっている英国人は多い。結構太い棒状のチョコレートで、長さはまちまちだけど、だいたい10センチくらいなんじゃあないかな。甘いものはほとんど一切食べないので、僕は買わないから実はよく分からないのだけれども、「健康に及ぼすかもしれない害」についての「警告」がチョコレート・バーに最近はついているというような話を聞いた。酒類にもついているとも聞いた。酒はあれこれ買うけれども、いちいちラベルに書かれている小さな活字なんか見ないから、分からない。煙草の箱についているのは何となく知っている。将来は「チップス」にもつけられるだろう、なんていう話も聞いたことがある。
目に入っていても、僕は、そういう「警告」は、読んでいないみたいだ。…と書いていて、気になったので、台所へ行って、酒瓶を見てみた。うちにはいつもウォッカがあるが、たまたま今あるのは、スウェーデンのAbsolutとロシアのStolichnaya。ワインもビールもあるが、「警告」がついているとすれば、弱い酒よりも強い酒だろう。で、ウォッカだけを見てみた。Absolutのボトルは瀟洒で、ラベルなど貼ってない。ボトルに刻まれた文章を読んだが、「警告」めいたことは書いてない。Stolichnayaのほうは、ラベルが裏と表とあるけれど、裏の下のほうに、”Please
enjoy Stolichnaya responsibly”と書いてある。そう言えば、これは、誰かが「どういう意味だ、これ?」と言っていたのを覚えている。最後の単語”responsibly”は「責任を持って」の意味だろうが、「責任をもって酒を飲む」とは、いったい、どういうことなのだろうか。これは健康への害を念頭においての「警告」なのかな。たぶん、そうなのだろう。普段飲まない人が急に飲み過ぎをやらかして、酒乱状態に陥り、人を殴るだとか、殺すだとか、そういう種類のことへの「警告」ではないと思う。煙草を筆頭にして、「健康に及ぼすかもしれない害」がある嗜好品一般への意識が高まっていることを受けて、酒造会社の側が、批判をかわすためにつけているのではないか。
それにしても、変な文だな、これ。”Please enjoy
Stolichnaya responsibly”か…。「責任を持って」と「楽しむ」のあいだには、何か矛盾があるような気がする。「楽しむ」のほうを自然に解釈すると、「責任を持って」などというのはそれは無理な話だろうと思える。「責任を持って」をとりあえず最近普通に了解されているように了解すると、「楽しむ」という概念がえらく窮屈な鋳型に流し込まれてしまうような気がする。
何だか酒が不味くなってきたので、ちょっと脱線しよう。ウォッカの話。僕が今飲んでいるのはAbsolutで、まあ癖のない無難な代物だ。何だかちょっとこってりとした感じはするが、なかなか良い。上記のとおり、スウェーデンものだ。御本家「ロシアのウォッカ」で一番「名前」が通っているのはStolichnayaだろう。これも癖がなくて良品なのだが、ロシアでの製造コストを考えると、値段が高過ぎて、「ブランド名」で吹っかけているなと思う。Absolutをちょっと軽めにしただけのような味で、何でこんなに高いのだか分からない。ついでながら、ウォッカは英国では日本の3倍くらいの値段。酒税が高いせいだろうか。…最近になって急に、大手の酒屋チェーン店でも、ロシア製のウォッカがあれこれと売られるようになった。Russian Standardが代表格だろうか。つい最近までは、妻がロシアに行ったときに土産で持って帰ってきてくれるだけの貴重な酒だった。これは、何と言うか、口当たりが「硬い」とでも言うか、飲み始めにガツンとくる。何となく重量級。逆に軽くてさわやかな感じがするのが、最近Marks & Spencerで売られ入るGreen Mark。ちょっと高級感がある。でも、AbsolutやStolichnayaよりも安いんだな。それとも、だいたい同じくらいの値段だったか。いずれにしても、高級感がある洗練された味の割には、高くない。僕はこれが一番好きだ。Smirnoffはどうなのかだって?あれは不味いよ。最近、缶コーヒーなんかでよく見かける日本語で言えば、「雑味」がして、いい加減に作っているような感じがする。何だか味がばらけていて、まろやかさがまずないし、ときにはえらく甘い味がするようにも思える。あとは、ウクライナあたりで名酒があるみたいだけど、そういうのは、仮に売っていても、ものすごく値段が張って、とてもではないが手が出ない。
日本では、僕の経験では、StolichnayaとAbsolutは、行くところへ行けば、手に入る。しかも、破格値で売っている。
「警告」に話を戻そう。ずばり、そんなものつけるな、と僕は言いたい。煙草でも酒でもチョコレートでも何でも同じである。「警告」など要らない。だいたい、煙草を一定量吸っていれば何となく気道が脆弱になるというのは実感で分かるし、酒も飲みすぎれば肝臓のあたりが重苦しくなったり頭の働きがボケてくることは実感できる。チョコレートやチップスだって滅多やたらと食べていたら体重が増えることにバカでも気がつくだろう。そういう「害」が気になるのであれば、気になったときに節制すればいいのである。(「旨い」という快感があることも忘れてはならない。)更に、僕が「警告」に反対するのには、もっと理屈っぽい根拠もある。そんな「警告」を、何らかのかたちで健康に良くないというだけの観点から、あれやこれやの商品につけ出したら、切りがないだろう。「健康の害しかた」なんて、無数にあるのだ。卑近な例では、「ダイエット」のやり過ぎで体調を崩したり、大病に罹るというのがある。でも、例えば、過激な「ダイエット」をしている人を念頭に置いて、チョコレートやらに、「チョコレートくらいは食べておかないと栄養不足で健康を害する危険があります」なんていう「警告」はつけられていないよね。冗談みたいに聞こえるかもしれないが、チップスでも何でも良いから、とりあえず、カロリーをいっぱい取らないと逆に健康が損なわれる人たちというのもいるのである。飢餓に苛まれる第三世界の国々の人たちなどにとっては、「害」どころか単純に「恩恵」だろう。「害」しかないように最近では喧伝されている煙草にしても、あれでしかストレスの解消ができないという人たちもいる。「心理的ストレス」というのは癌の原因の1/3以上で少なくともあると言われていることを考えると、煙草は無条件に悪いなどと言い張るのは、短絡な思考でしかない。
妻がさっき冗談で言っていたが、「この世に生まれるということには死ぬ危険があります」なんていう「警告」など割とまっとうなのではないか。これは、考えてみると、冗談では全然なくて、まったくそうなのであって、更に、「警告」文のバカらしさの首根っこをしっかりと押さえている名言でもある。「自殺」や「交通事故死」やらまで含めて、人がいつ、どう死ぬかなど、相対的には、予見不可能なのであって、「死ぬ危険」などという表現を、統計的な根拠だけから軽々しく使うべきではない。「統計」の価値にトコトンこだわるのであれば、「宝クジ」にも「警告」をつけるべきではないか。「このクジを買っても外れる危険があります」だとか。これは冗談ではないということは、ちょっと考えてもらえばすぐに分かってもらえると思う。生活に困窮して、宝クジや博打に賭ける人たちも(特に最近のように貧富の格差が広がればますます増えて)いるのであって、「外れ」たり「負け」たりすれば、餓死やら自殺やらに追い込まれても不思議ではなく、それこそ「健康に及ぼすかもしれない害」の良い例ではないか。金持ちが自堕落で健康を害するよりも、より切実でもある。
(15.3.2008)
今しがた前述のY*****先生へ宛てて書いたメールからの引用。
「実は日本人は現代文明嫌悪に陥っており、しかし仕方がないので分かっていながら低俗な物事に付き合っている、あるいは故意に身を染めている」というご感想には何かピンと来るものがあります。「幻滅感」とおっしゃるのは、更に良く分かります。「現代文明嫌悪」というのは、私なりの考えでは、二重構造になっていると思います。深層として、加藤典洋が言う「戦後のねじれ」のような文化基盤の不安定さがあり、それに上塗りをするように、1980年頃でしょうか、「産業社会」から「情報社会」へ移行した際に、元々脆弱であった基盤から、更にまずいことに、文化が浮き上がり、歴史基盤一切から遊離してしまった…およそ、そんな事情なのではないかと思います。「歴史」という言葉を唐突に出してしまいましたが、今日の日本の文化を考えるときに、とにもかくにも、「歴史意識の欠如」というのが一つ大きなキーワードであるはずです。端的に、例えば、今日の日本人が「現代文明」を「嫌悪」しているという表現において、「現代文明」というのが厳密に言って何を指しているのかなどと考えてみますと、その定義は非常に曖昧なはずだと思われます。明治維新以来の「近代化」を指しているのか、二次大戦後の「国民的アイデンティティー喪失」みたいなものを指しているのか、歴史感覚が失われた「情報化社会」を指しているのか、それとも、「現代文明」という言葉の歴史的な重さなどへの考慮などなく単純に「(何でこんなふうになったのかは問題にもせず、単に)今日の日本の文化」のことを指しているのか。…こんなことを考えていますと、当今の日本人は、そもそも、縦軸(歴史)と横軸(情報の羅列)というような単純な作業仮説的座標軸さえ立てられないことも含めて、思考を始めるための端緒的「手がかり」さえをも失ってしまっているように思われてしかたがありません。時評など読みましても、細部は今日の日本文化を丁寧に解説しているように見えても、議論の大枠をどうしっかりと取るかについての意識が端的に欠落しているように思われます。「大枠」と謂うのは、例えば、「歴史」などのことです。そんなことでは、見てくれと当座凌ぎのためだけのたわ言がアブクのように出てくるだけですから、社会が全体として「幻滅感」に覆われてしまっても、それは当然だと思います。それにしても、「嫌悪感」と「幻滅感」がこれだけピュアなかたちで発現するのは戦後以来初めてのことでしょう。(そう言えば、「平成」の文化的退廃は「大正」の再来だと言う人たちがいますね。それは結構当たっている、と私は思います。)
羅針盤がぶっ壊れた船のようです。船内をどれだけきちんときれいに片づけても、Bermuda Triangleに直行しているのでは、まったくの無駄です。私が今の日本について喋るときに、細かなことについてはあえて議論をすることを控えて、乱暴に十把一からげに暴論や「不適切発言」を繰り返すのには、そういう理由があります。もちろん、「確信犯」でやっています。国内での細部の整合性が高まっている分だけ、逆に全体の舵取りをすることは難しくなっています。最悪の対処法は、私は、細部に関わる「技術論」に参加してしまうことだと思っています。「今の日本社会の閉塞を打破するためには外圧が必要だ」という議論がありますね。もちろん、そんなのは情けないと私は思います。しかし、そういう一見「暴論」のようなものにでも、私は、表向きには賛同します。「ぶっ叩いてみて何が出てくるか見てみよう」というのが、残念なことに、私には、最善の策に思えます。文化内部が緻密に構築されてしまっている分だけ慣性力的抵抗は大きいわけですが、内部からは打開策はもう絶対に出て来ないという診断をしますと、破壊的な圧力が外部からかかることにしか、もう、活路はないように思われます。細かなことを考えることは多くの場合にとても大切なことですが、今日の日本文化を考えるときには事情が逆立ちしていて、むしろ、「そんなのバカ」、「あんなのアホらしい」というような発言のほうが、よほどまともな「批評的」コメントなのかもしれません。何となく、「技術論につき合ってはダメ」で、「揺さ振りをかけるような暴論」は何でも生産的なのかな、と私はよく思います。
これは、まあ、前の書き込みとは話題が違うかな。そう言えば、東京を覆いつくしているあの「幻滅感」っていったい何なのだろうと、漠然と考えながら、つらつらと書いた文章。私信メールで書いた文章の量は僕の場合は相当な量があって、以前から講読してくれている人たちは分かってくれていると思うけれども、「せっかく書いたんだから」ということで、ここに再掲をときどきする。
どうだろうか、今の日本の社会を覆うあの閉塞感を打ち破る手なんてあるのだろうか。視点が違うと、ピンと来ない人もいるかもしれない。僕とY*****先生は、共に、現今の日本文化のあり様を嘆く同志であって、前提として、「非連続的変化」が必要というところまで意見を同じくしている。今日の日本の文化は、「技術的に調整がおかしい」のではなくて、「根本から狂ってしまっている」と考えるという共有前提が僕とY*****先生にはあって、僕は、それに則って上のような文章を書いている。
僕は別に日本文化研究者でもないし、社会学者でもない、ただの門外漢なので、より事情に詳しい人で、僕の言っていることに不備があると思う人がいたら、まあ、適当に見逃してください。
さて、と。そろそろ本業に戻るとするか。
まだロンドンにいるよ。
(14.3.2008)
ロンドンでの「我が家」についての言語事情について。人に言われて改めて「はあ?」と思ったのだが、なるほど、ロンドンの僕の家では三つの言語が使われている。もちろん、僕と妻が二人して三つの言語を互いに向けて使っているわけではない。そんなことに万が一なっては、ポリグロットの資質がある妻のほうは生き延びられるかもしれないが、外国語には総じて弱い僕はたまったものではない。互い相手には、もちろん、英語を使っている。英語は僕にとっては「第一外国語」、妻にとっては「第二外国語」で、両方ともそれなりに英語はできる(つもりでいる)ので、基本的な意思疎通のレヴェルでつまづいたりすることはない。しかし、問題は、意外なところにあったりもする。昨日だったか、東京での同僚Y*****先生に宛てて書いたメールからの引用。
今日の午後、ある用件で、人と電話口でお喋りをしていましたところ、受話器を置きましたら、E*****から、「何でそんなまわりくどい、フォーマルな、まるでヴィクトリア朝のインチキ紳士みたいな喋りかたするのよ。たかが*****さん(註:電話の話し相手)じゃないの。まだるこっしいわ」と言われました。本当にくだらないゴシップをしますと、3つか4つの言語が出入りする我が家では、一番当たり前のように使う英語が一番の「火種」になります。攻防戦はおよそ次のごとくです。妻は、まあ平素、英語環境で働いているくらいですから、"vernacular"の聴き取り能力はほぼネイティヴ並みな一方、私は、ロンドンでは、隠遁して活字ばかりを眺めていますから、"vernacular"な英語の聴き取り能力には相当な限界があります。それを活用して、妻は私を攻撃します。タクシーの運転手はほとんどがCockneyですが、妻は、馬耳東風の私を差し置いて、運ちゃんとお喋りに興じたりします。私への嫌がらせです。私は、英国の北方方言などの音声学はそれなりに勉強したのでいまだにある程度は対処できるのですが、殊、Cockneyだけには、ロンドン生活者としてアレルギーがあり、断固としてこれまで勉強を拒絶してきましたので、連中が何を言っているのだか良く分かりません。一昔前までは、私は、自分の下手くそな英語は脇にのけておいて、"I don't speak the kind of English that you
speak"などと偉そうにあしらってきたのですが、最近は、連中の株が上がっています。勢い、話し言葉の英語から入り、しかも、英国での生活はCockney的言語環境から入った妻に、軍配が上がります。先生はアメリカ文学がご専門ですからご存知かどうか確束ないですが、1990年代にイングランド南東部で発生した新種の「方言」で、Estuary Englishというのがあります。詳しくは分かりませんが、この「方言」では、母音は何となくCockney調にシフトする傾向があり、私は個人的にはそれだけで鳥肌が立つのですが、滅多やたらと子音を脱落させます。えらくだらしなく私の耳には聞こえ、「お前らいつから華僑の英語の真似をし始めたんだ!」と言いたくなるのですが、世間で通用しているのですから、しかたがありません。「どうでもいいや」とは思いながら、でも、妻がその種の英語をほぼ完全に解するのには、私はいらつきます。総じて私は旗色が悪いのですが、ですから、反撃できるところでは私は反撃に出ます。妻は、私にとっては当たり前のような中産階級の「昔ながら」の英語が苦手です。聞けば分かる力はもちろん彼女にはあります。しかし、自分では喋れないのですね。書くのも、彼女は、フォーマルなのはダメです。そのあたりで、私は、(みみっちいことに)彼女を出し抜こうと頑張ったりします。「まだるこっしいわ」などというのは、私に言わせれば、負け惜しみ以外の何ものでもありません。私は、学校で教わったとおりに、ちゃんとした英語を喋っているのだけです。まあ、分業体制ができているということでしょうか。あまり、こういうことを露骨に問題にしますと、「お前は日本語は分からないだろーが」、「あんたこそロシア語は全然分からないのにー」にまで無意味に展開しそうなので、まあ、アバウトでやっています。
ロシア語が出てくるのは、それが妻の第一言語だから。妻は、一度ドイツ語を経由して、それから英語を勉強した。僕のほうは、コンビネーションは同じだけど、まずは英語ありきで、それだけで生計を立ててきたという経緯もあり、ドイツ語はもうすっかり忘れてしまった。僕はバカにされているのか、妻は、職場から、Lese – Novelas (Hueber Verlag)とか何とかいうドイツ語初級学習者向けのリーダー(Deutsch als Fremdsprache)を、処分品なのか何なのかよく分からないが、持って帰ってきて、「読め」と言う。そのシリーズのEva, Wienというののページをパラパラとめくってみたが、あまりにも内容がくだらない。ドイツ語を勉強しようという気持ちはあるのだが、もっとましな読み物はないものか。ひねくれ者の妻は、「じゃあ、マルクスの『資本論』でも読めば」などと勝手なことを言う。そんなもの、日本語訳でも英訳でもロクに分からないのに、ドイツ語で僕が読めるわけがないだろ。というわけで、いくら内容がくだらなくても、やっぱり、何も読まないよりは、Hueber Lese – Novelasでも読んでおいたほうがいいのかな。EvaちゃんがWienのKaffeehausでどんなコーヒーを飲んでいても、僕はどうでもいいんだけど。Evaちゃんは、外が寒いから、コーヒーを飲みたいんだけど、”Aber Eva hat
kein Geld”で、コーヒーは飲めずにトイレを使うだけで、”Eva denkt: Ich mochte auch, dass ein Mann mir eine
Rose schenkt!”と相成る。ああ、悲しい。
何の魔が差したのか、妻はこの小冊子を風呂に入っているうちに読み切ったらしい。Evaちゃんを助けてくれる男が、その後、登場するらしいのだが、お話の最後のほうで、この男は実は「ロボット」だった(?)という展開になるらしい。それでは、シュールを通り越してほとんどLSDの世界ではないか。それを聞いたら、何だかものすごく素敵な教材に思えてきた。「狂いかた」というのも、文化相対的なものだ。そうか、ドイツ人と言えば、まあ、普通は「電卓」みたいに機械的なのが多いわけだが、「狂う」とこういう「狂いかた」をするのか…などと、文化学習をさせてもらった。「ボーイフレンドがロボットだった」なんていう物語の展開は、普通、語学教材では期待できないよね。改めてドイツ人のすごさを思い知らされた次第。
ところで、語学学習というのはそんなに身を構えてやらなければならないものなのかな。「語学の教材」というだけで、大学あたりまで勉強を続けた人たちであれば、だいたい定まったイメージを共有しているのではないだろうか。何だか、どの授業で使われている教材も、中身は似たり寄ったりみたいだとか。文法の勉強はおよそ済ませて、さて、それなりの長さの文章を読むという段階になると、「イギリスに語学留学するエツコさん」なんかが出てきて、「ホームステイ」の「ホスト・ファミリー」は良い人たちだったなんていう具合に幕を降ろす。文法を勉強するところから初めて、そういう類のお話を読むという段階まで、何だか、学習プロセスがセットで出来上がってしまっているような気がする。勉強を始める前から、何となく、そんなものがいずれ出てくると身構えてしまってはいないだろうか。良くない傾向だと思う。やる前から頭が石頭になってしまっている。読み物もそうだけど、作文練習用の文なんか、本当に型にはまっているよね。「夫は、妻を家に残して、友人たちと釣りに出かけました」だとか、そんなのばかり。「夫は麻薬中毒で、妻はそれを苦にして発狂し、連続殺人をしました」なんていうの、見たことないもんね。数年、英語の教師をしていて、少なくとも僕は、そういう面白いのを見たことはない。教えていて、いつもあくびが出る。
僕は、平素は、語学の教材などについては考えたりはしない。うーん、まあ、「外国語を身につけたければ、その言語を話す男なり女なりとつき合え」までは言わない。別に、方法論として間違っているからではなくて、相手が人間である以上、不確定要素が多く、「語学学習」をしているどころでは、たいてい、なくなってしまうからだ。でも、まあ、「外国語学習」と「デート」の区別がつかないくらいに頭が良い学生には、意外と効果のある学習法かも。「ナンパ実用英語講座」なんて、機械作業的な語学の学習くらいは自分でこなせるという学生には、案外と魅力的(かつ実用的)なのではないだろうか。学習の目的は「何でもあり」くらいの気楽さがないと、どうだろう、外国語なんか勉強していて、つまらなくはないだろうか。
「冗談」と「本気」の区別がつくと思う人間は、基本的にバカである。これは、普遍的な法則だ。
日本の大学で英語を教えていると、見るに耐えない語学教材にお目にかかることがある。だいたい、昨今よくあるようなマスプロ教育環境に加えて、教材までここまで「狂って」いたら、本当にどうしようと戸惑うことが多々ある。ドイツ語のEvaちゃんなど、まだまだ無害なほうだ。「ウィーンのカフェでコーヒー代がない」というのは、シチュエーションとしてはくだらないとしても、そんなシチュエーションをイメージすることじたいには大した害はない。ボーイフレンドがロボットだと判明するいうサイケデリックな話の展開も、SF小説が良く読めるようになって、楽しいんじゃあないかな。語学(英語)教材が「狂っている」などと言うときにイメージしているのは、例えば、TOEICテスト系の教材だ。とにかく、あんなにつまらない教材はまず他にはない。「ミーティング」がどうの「顧客」がどうの「納品」がどうのと、まあ、役に立たない表現を、それをどう使うか具体的にイメージもできない学生たちに、よくも制度規模で教えようとするものである。僕なりの「常識」で言えば、「口説き文句」の一言二言も格好良く言えないのに、「顧客サービスに関するミーティングが…」なんていう表現を勉強するなど、バカげている。
グロテスク極まりない。
誤解してもらっては困るので、念のために言っておくと、僕は、文法と発音にはものすごくうるさい。文法ができずに、「口説き文句」もTOEICも何もない。文法力はあっても、発音がカタカナ発音では、それもダメ。この2点は、しっかりと勉強しなければ、その先へ進んでもあまり意味がない。聴き取り力養成も大事だな。僕がケチをつけているのは、言葉が伝える内容に関してだけだ。
あのTOEICというのを地上から抹殺する手というのは、何かないものかな。
話がどっちに向かっているのだか分からなくなってしまった。
まあ、外国語なんて、勉強の基礎はしっかりと、しかし、それを固めたら、あとは、肩の力を抜いて、「何でもあり」でやったほうがいいんじゃないの、という話でした。試験の点数がどうのとかいうどうでもいいような問題だけでなく、夫婦喧嘩の火種になるかもよ、っている話でもあったかな。どちらの場合も、あまりガチガチに硬く考えないで、適当にやったほうがいいよ、というのが、まあ、とりあえずのメッセージと言えばメッセージ。
(13.3.2008)
二昔、三昔のこと、まだ僕は学部生で、いったい自分が何を勉強しているのだかよく分からずに、無心にゼミやらに向けて予習復習をしていたころに、アメリカ文学の講読演習のゼミでだったが、「疲弊の文学」(”literature of exhaustion”だったかな、英語では)という言葉が浮上したことがあった。その後、僕は、そういう表現にはついぞ出くわしていない。アメリカ文学の一部では、今でもそういう素敵な表現を使って、文学を実り豊かなものにしているのだろうか。
確か、二重の意味がある表現だと教わった記憶がある。その二つの意味とは、「疲労困憊した状態でやる文学」と「疲労し切った文学」ではなかったか。間違っていたらごめん。たぶん、そうだったと思うのだけどな。材料として使われていた作家は、確か、記憶に間違いがなければ、John Barthというアメリカ人現代作家だったと思う。正確に思い出せないところが僕の情けないところで、そのときそのときの気分で適当に「文学」してきたものだから、記憶に頼る細部は、掘り起こすと、相当にいい加減になってしまう。
何となく、自分の頭の中で、常数化してしまったのは、「文学」と「疲労」とがどう交錯するかという問題設定。「文学」というのは、「疲れていない」状態でいったいにそもそもできるのだろうかという問いが、僕の中では、加齢と共に、大きくなりつつある。昼間は授業でも何でもいいけれど仕事をして、それで疲労困憊して帰宅する。一寝入りしてから、ボソボソと床から身を起こし、意識は朦朧とする中で、「果てさて」と頭を絞る。そこが「文学」の、僕にとっては原点なのではなかろうかと、年来、思ってきた。「授業がない日」というのは僕は学期中は享受したことがついぞないので知らないが、まだまだ一日の仕事をするエネルギーが100%ある状態で、午前中から「文学」などいったいにできるものなのだろうか。
「不眠症文学」に僕がこだわるのには、かなり、個人的な事情が絡んでいる。「夜型」の生活パターンにはまってしまったのは25年ほど前のことで、それ以来、ついぞそれから抜け出すことができずにいる。朝から「文学」をしたらどうなるのか、実地の体験が僕にはない。午前中に文学の講座をやったこともない。逆に、どれほど疲れていても、真夜中を過ぎると、どういうわけか寝る気にならず、本をあれこれ開いたり、ものを書いたりして、エンジンがかかる。身体的には疲労困憊していることが多い。深夜に「引っ張る」ことをすれば、更に翌日、疲れが倍加することも承知している。しかし、それでもなお、時計の針が真夜中を回らないと、「文学」は僕にとっては始まらない。
身体的な余裕があっても「文学」などというのは、インチキ、まがいものではないかという疑念が、僕には強くある。「もうこれ以上は出せないよ」というところまで身体を疲労させて、そこから初めて「文学」は始まるのではないかとよく思う。あるいは、「文学」とは、「疲労」そのものではないだろうか。異論がいくらでもあるということは、先刻承知だ。気分で思いつくままを書いているに過ぎない。
春休みも半ばを過ぎて、ギアの入れ替えが必要になってきた。つまり、昼間の仕事をしなければならなくなったということだ。ボチボチの再開ではあるけれども、気分は重い。
(10.3.2008)
(これよりも前の日付の「余談」はここ。)
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